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最後の『トレント最後の事件』:探偵の退場と人間の登場

図らずも時間をかけることになったE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』を読み終わった。

かつて、大量に翻訳ミステリーを読んだ時代に、古典の多くを取りこぼした人間は、今回もまた、「謎解き小説」「本格ミステリー」という檻に閉じ込められたものも、檻から出して裸にしてみれば、ただの「小説」「物語」だということを確認した。

◎乱歩の「恋愛探偵小説論」と『トレント最後の事件』および『赤毛のレドメイン家』

ちょうど乱歩の『海外探偵小説作家と作品』をPDFにしたばかりだったので、ベントリーについてどう云っているか見てみた。が、またしても当てごとと何とかは向こうから外れて、ベントリーは立項すらされていなかった。

エドワード・アタイアなんていうマイナー作家の章からはじまっている書であるにも拘わらず、昔のミステリー名作ランキングでは常連だった『トレント最後の事件』のベントリーは除外されているというのは、どういうことなのか?


江戸川乱歩『海外探偵小説作家と作品2』(講談社文庫版)


乱歩が時に応じて読んだ作家と作品を紹介するエッセイを集大成したものなので、周知の『トレント最後の事件』を紹介する謂れはなく、ベントリーの他の埋もれた作品というのも入手することはなかったために、書くチャンスがなかっただけかもしれない。

しかし、いっぽうで、乱歩が「謎と論理の物語」について考察した諸論考に、ベントリーの居場所がなかったというのは、それほど不思議ともいえないようにも感じる。

◎アヴァンゲールとアプレゲール

『海外探偵小説作家と作品』のイーデン・フィルポッツの章で、『赤毛のレドメイン家』同様、恋愛が絡む謎解き小説として、乱歩は『トレント最後の事件』にふれている。

それから犯罪ともつれ合って描かれた恋愛の魅力である。 私が今まで読んだ内で、恋愛が 「謎」 の邪魔にならぬばかりか、 寧ろ 「謎」 の魅力を幾倍にも強めるように論理と感情とが有機的にシックリと化合している探偵小説は、 「トレント最後の事件」 であるが、 「レドメインズ」(『赤毛のレドメイン家』)は色々な意味で 「トレント」以上である。
――江戸川乱歩『海外探偵小説作家と作品』より

これはわかる。レドメインは異常なシテュエーションをつくっているが、トレントのラヴ・ストーリーはとりたてて変わったところはないし、犯罪および捜査との絡み方もレドメインほど密ではいない。しかし、この二者をそういう形で同じ土俵に置くのは、フェアとは云えないと思う。

1913年 トレント最後の事件
1922年 赤毛のレドメイン家
1923年 江戸川乱歩「二銭銅貨」でデビュー

云い添えておくべきことがある。トレントとレドメインのあいだには第一次世界大戦(1914年7月28日~18年11月11日)があるのだ。日本は一次大戦にはそれほど影響を受けなかった(参戦はしたが、青島のドイツ軍を攻めて占領した程度)ので、乱歩はこの点を重視していなかったと思う。



いわゆる「本格ミステリーの黄金時代」は1920年代、大戦後に訪れる。とくに、乱歩が称賛する『赤毛のレドメイン家』は戦争の影が色濃い。一次大戦後のダダイズムやシュールレアリスムなどの芸術運動を指した「アプレゲール」という言葉は、こちらのほうにも転用していいと感じるような犯罪者像が描かれている。

たいした根拠のない勘球だが、のちに「本格ミステリー」と呼ばれるようになる一群の犯罪小説が1920~30年代に生まれ、ひとつのジャンルを形成するに至ったのは、第一次世界大戦と深い関係があると思う。作家たちの集合無意識、人間観、死生観、社会観が大きく変化したのではないだろうか。

◎見えなくなった独自性

ラヴ・ストーリーとしてみれば、『トレント最後の事件』は乱歩の云うとおり、『赤毛のレドメイン家』より構造的には単純だ。しかし、やはり読むに値する魅力をいまでも保持している。

小説は商業的便宜のために、版元や書店に、あるいは批評家にラベルを張られ、分類されて棚に置かれるものだが、それ以前はつねに、ただの「小説」でしかない。その裸の小説を見つけようとして、このところ、「古典ミステリー」というブラックボックスに押し込まれた小説群を読みつづけている。



『トレント最後の事件』は、「黄金期」の作家たち、クリスティー、セイヤーズ、チェスタートンらに大きな影響を与え、1920年代の本格ミステリーの成立に大きく寄与した、とされている。つまり、存在しなかったジャンルに形を与えたということだ。

トレント以前の犯罪小説は、低俗で雑な作りのものが多かったらしい(そういうものはいちいち翻訳輸入はされず、わたしは読んだことがないが、それをいうなら、たぶん、乱歩も読まなかっただろう)。ただ、後続の作家たちによって、ベントリーは乗り越えられてしまった、とまではいわないにせよ、このようなこけおどしのない端正なスタイルは、一般的なものになってしまったのだと思う。

ビング・クロスビーは、マイクロフォンというものの存在を前提として、声を張り上げず、スッと自然に唄う「クルーニング」という唱法を発明したが、後続の歌手たちがこぞって、ベル・カントを基礎にした従来の唱法を廃し、マイクに向かって静かに唄うようになったために、後年、クロスビーの独自性は見えなくなってしまったのと、ベントリーの創意が見えなくなったのはよく似ている。

◎事件に敗北する探偵

警報。ここからは未読の人には有害なことを書く。

中井英夫はその『虚無への供物』を「反ミステリー」と呼んだが、それとはやや異なった意味で、『トレント最後の事件』は反ミステリーである。少なくとも、「反名探偵小説」と云っていいだろう。なんなら、百歩譲って、「本格ミステリーのパロディー」ぐらいでとどめてもいいが。


『虚無への供物』を収録した三一書房版『中井英夫作品集』(装丁は武満徹)わたしが『虚無への供物』を読もうとした時、講談社の初版、塔晶夫名義のものはすでになく、これで読んだ。化粧箱の中はシンプルな白いフランス装の造本だった。


のちに「正統」とされる形を世に示したものと、チェスタートン、クリスティー、セイヤーズらにみなされているその長篇が、すでに「本格ミステリー」という幻想を揶揄するような造りになっているのだ。これを皮肉と云わず、何を皮肉というのか。いや、小説というものの本質がそうなっているから、枠組、タガ、定義に対して批評的になるのは不可避なのだが。

ベントリーが後世における位置づけまで見通して書いたはずはない。たんに、彼の作家としてのペルソナが、半歩身を引いてこの世界を見る「大人」であったので、「神の如き明察」をする名探偵(当然、ホームズが念頭にあっただろう)なんてものがいてたまるか、と笑い飛ばしてしまっただけだろう。

乱歩はユーモアの人ではなかった。横溝正史には『びっくり箱殺人事件』に見られるように諧謔を解する心があったが、乱歩はこと小説に関しては真面目いっぽうの人だった。だから、『トレント最後の事件』の偶像破壊、探偵は神ではない、という宣告は、気分のよいものではなかっただろう。


1970年だったか、横溝正史を読んでみようと思ったとき、まだブームは起きておらず、古書店をまわってひとつひとつ拾って行った。『びっくり箱殺人事件』もこの元版で読んだ。東方社というのは、講談社のミステリー専門サブレーベル。


過去に数々の難事件を解決に導いたと喧伝される名探偵がさっそうと登場し、ほんの二日ほどで真相を見抜いて新聞社に草稿を送り、失恋のために悄然と去る、という、きっちり形のできた芝居だったはずのものが、後半でひっくり返され、犯人を間違えたばかりでなく、そもそも事件の構造すら読み間違えていたことが明らかにされ、探偵は唖然とし、そして、大笑いする。

人間には、赤の他人の死よりも大切なことがたくさんある、たとえウォール・ストリートを右往左往させる大物の死であろうと、生涯の伴侶を得るという大事の前では何ほどのものではない。探偵は犯罪の真相をあばけなかったが、伴侶を得て満足し、自分には探偵の才能はない、もう探偵は廃業だと笑って退場する。いい話じゃないか!

さすがはジャンル成立以前の書、ルールだの原則だのイワシの頭だの、そんなものは眼中にないおおらかさで、こちらも、あっはっは、本格ミステリーは生まれたその時にもう死んでいたのか、と笑いながら巻を閉じた。

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