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旅芸人と神と鬼:モーム、小津安二郎、フェリーニ、鈴木清順、横溝正史、エルヴィス、小林旭、川端康成
「古典ミステリー初読再読終読:サマーセット・モーム『アシェンデン或いは英国諜報員』その1」でふれた、イギリスの某国駐在大使の若き日の恋の相手が、旅芸人一座の醜いアクロバット芸人だというのを読んで、いろいろ思いだし、あれこれ考えた。
そのあれやこれやを書くので、これは「アシェンデン」を扱った三つの記事のまっすぐなつづきというより、枝分かれというべきかもしれない。
◎川端康成『伊豆の踊子』
日本の場合、旅芸人の物語というと、わたし自身はあまり興味がないのだが、何よりもまず、『伊豆の踊子』を挙げざるを得ないだろう。
過去に何度も映画、TVドラマ化され、田中絹代、美空ひばり、吉永小百合、鰐淵晴子(子供のころ、素晴らしい美女と思ったが、素朴な伊豆の踊子に扮するにはあまりも都会的では? まあ、見てみたいが!)、内藤洋子、山口百恵などがヒロインを演じた。わずかに吉永小百合と高橋英樹主演の日活版をテレビで見た記憶があるのみ、それも前世のようなはるか昔なので、中身は記憶ゼロ。
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これではどうしようもないので、やむを得ず原作を読んだ。
主人公は一高(第一高等学校、帝大に進むためのプレップ・スクールだった)の学生で、伊豆を旅していて、大島から来た旅芸人一座と見知りになり、もっとも年少の薫という踊子にほのかな思いを抱く。一行にすすめられるままに、天城から下田まで数日の旅程をともにし、学生は念を残しながら、そこで一座や少女踊子に別れを告げ、東京への船に乗る――。
プロットにしてしまうとこれくらいで、取り立てて事件が起きたりはせず、何やら鬱屈を抱えているらしい一高生は、魅力的な少女をどうすることもできなかったことに、相応の満足とある種のカタルシスを感じ、心の平安を得たかのように思えるエンディングで、あと口がいいのが魅力と云える。
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◎小津安二郎『浮草』1959
『浮草』は、昭和9(1934)年の小津自身による『浮草物語』のリメイクだが、オリジナル版はどこにしまい込んだか、見つからないので、HDDにコピーしてある昭和34(1959)年の宮川一夫撮影によるカラー・リメイクをざっと再見した。
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過去の小津映画を踏まえて小津らしさを保ったまま、宮川一夫は厚田雄春とは異なる、いかにも宮川一夫というタッチも加え、素晴らしい絵作りをした。
旅の芝居一座の座長・嵐駒十郎(中村鴈治郎)は巡業で訪れた某所で、昔の愛人・本間芳(杉村春子)を訪ね、彼女とのあいだにできた息子・清(川口浩)と再会する。清は、父ではなく、叔父と信じている駒十郎との再会を喜び、釣りなどをして交遊する(『父ありき』の笠智衆、佐野周二父子の渓流釣りのエコー)。
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一座の女優で、駒十郎の現在の連れ合い(妻か愛人か不明)のすみ子(京マチ子)は、駒十郎の行動を不審に思い、昔の愛人や息子と会っていることを知って、駒十郎をなじるが(映画史に名高い豪雨のなかの罵り合い)、お前の知ったことではないとはねつけられる。
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憤懣やるかたないすみ子は、腹いせに、一座の若い女優・加代(若尾文子)に金を与え、清を誘惑して堕落させろとそそのかした。すみ子の計略通り、清は加代に惚れ込み、二人は逃避行を企てる……。
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結末はどうでもいい。女は旅の一座の男に惚れ、その子を生み育て、育った子供は一座の美しい女優に惚れて出奔する。この構造はフォークロア的である。
◎鈴木清順『峠を渡る若い風』1961
清順が「グレ」て、本格的に変な映画を作りはじめるのは1963年の『野獣の青春』からのこと、と云って大丈夫だろう。『峠を渡る若い風』はそれより早い61年製作の、タイトル通り明朗闊達な映画で、清順ファンのあいだではあまり評価されていないようだし、海外の日本映画ブログで言及されているのも見たことがない。
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しかし、かつて池袋文芸坐地下(昔の文芸坐は二館で構成されていた)での鈴木清順シネマテークで見た時、こちらはまだ高校生だったせいもあるし、もともとこういう明朗な青春映画を好む傾向もあり、大いに楽しんだ。和田浩二の代表作だと考えている。
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夏休みを利用してアルバイトをしながら旅している学生の船木信太郎(和田浩二)は、千葉は佐原で旅銭に窮してヒッチハイクし、奇術師の今井金洋(森川信)を座長とする、唄あり、芝居あり、ストリップあり、珍芸ありの旅芸人一座のトラックに同乗させてもらう。
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信太郎は稼ぐために香具師の一団に混じって旅をすることになるが、あちこちで金洋一座と出会い、座長夫妻の娘・美佐子(清水まゆみ)にしだいに惹かれていく。
金洋一座は、売物だったストリッパーの朱美(星ナオミ。いかにも、のキャスティング!)を引き抜かれ、興行師(山田禅二。これまたドンピシャリ!)に、約束が違う、それでは商売にならん、と拒絶される。
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追い込まれた金洋は、危険な水中からの脱出奇術に挑み、失敗して命を失ってしまうが、一座は美佐子を中心に、なんとか頽勢を覆そうと努め、信一郎もそんな彼らを助けて奮闘する――。
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というように、前半は伊豆の踊子風、後半はフレッド・アステアの『バンド・ワゴン』のような展開になっていく。
◎フェデリコ・フェリーニ『道』(La Strada, 1954)
外国映画にも旅芸人一座の話というのはたくさんあるだろうと思うが、思いだしたものは一握りで、そのひとつがこのフェリーニ初期の代表作。
力持ち芸で各地を巡っているザンパノ(アンソニー・クイン)は、アシスタントに死なれて、その代わりにと、彼女の妹であるジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を彼女の貧しい母親から、わずかな金で買い取る。
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ザンパノはジェルソミーナに、ドラムの叩き方、トランペットの吹き方、口上の文句を教え込み、オートバイで荷車兼寝台車を牽いて各地を巡る。
ある土地でザンパノは、居酒屋の女と一晩過ごしたことで、ジェルソミーナといさかいになり、彼女は逃げ出し、「道化男」の綱渡り芸を見物するが、すぐにザンパノに見つかり、打擲され、旅に連れ戻される。
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こんどは小さなサーカス一座に加わることになるが、その一座にはすでに「道化男」がいた。明示的には説明されないのだが、ザンパノが単純かつ粗暴で、その芸も力まかせなのに対し、道化男はこの世界を斜に見るタイプの知的人間のようで、二人の人間としてのありようが根本的に異質なせいか、座主に紹介されたとたん、彼はザンパノを「カス」と呼び、皮肉を浴びせ、嘲笑する。
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道化男は、オン&オフ・ステージでザンパノをからかいつづけ、ついにザンパノがナイフを手に道化男を追い回し、警察沙汰になって、二人ともサーカスを追い出される。
ザンパノが警察に捕まった夜、道化男はジェルソミーナと語り合って、彼女とザンパノの関係を究明し、自分のために生きることをすすめる。なんなら、俺のアシスタントになったらどうだ、とまで云うが、結局、彼女はザンパノを見限ることはできない。
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二人は旅に戻り、道化男がひと気のない田舎道で故障した車を修繕しているところに出会う。ザンパノはたちまち道化男に殴りかかり、彼の頭を車に叩きつける――。
◎横溝正史『獄門島』『女王蜂』『悪霊島』『神楽大夫』
横溝正史は旅芸人を好んだようで、記憶している限りでも、三つの長篇とひとつの短篇に登場させていて、ほかにもまだ、記憶していないものがあるだろうと思う。
『獄門島』では、頭のタガが外れた三姉妹の母親が、旅の芝居一座の女優で、網元である「本家」の若旦那がこの女に惚れてしまったことが、そもそもの端緒となり、つぎつぎに事件が起こる。また、この一座の出し物であった「娘道成寺」の道具である、張りぼての鐘が事件に大きな関わりを持つ。
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『女王蜂』は、伊豆沖に浮かぶ小島(架空)から始まる物語で、そこに旅の芝居一座が訪れたことが事件解決の大きな鍵になる。としかいいようがない。これ以上書くと、犯人がわかってしまう!
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『悪霊島』では、ヒロインである御寮人が旅の神楽一座の若い男と関係を持つことが描かれている。
短篇「神楽大夫」は、神楽一座の兄弟の確執の話で、後述する、旅芸人が物語で果たす役割とはあまり関係がない。
◎トリックスター、窓、解放、自由、変化
エルヴィスのRoustabout、小林旭の「渡り鳥」シリーズ、松本清張「天城越え」などと、芸人を離れて「旅人」へとまだ関連作品は分岐していくのだが、それはあとで添えることにする。
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以下、民俗学的、あるいは社会学的側面を持つ事柄を扱うが、当方、民俗学には無知、したがって、そのあたりは、自己流の考えに過ぎず、学問的な裏付けはまったくないことにご留意願いたい。時にあたっての出まかせだから、ただご笑読を。折口信夫や柳田国男の本を見れば、以下に書いた幼稚な考察は、明解に腑分けされ、論理的に語られているだろうと思う。
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フィクションにおいては、旅芸人はやはりある種のトリックスターであり、物語を動かすだけの力を持った変化の風として登場する、と考える。
いろいろなパターンがあるが、ひとつは、定住者の中に旅人が立ちあらわれ、その小さな閉じた社会ないしは個人の心に、大きな擾乱を起こし、そこに物語が生まれる。『浮草』『獄門島』、そして変形されているが『アシェンデン』の某国大使の物語がこの型だ。
閉じて、安定した社会に、正体不明の外来者が投げ込まれ、空気を掻き回す。この場合、どことも知れぬ遠方からやってきた旅芸人は、自由、変化、解放を意味する。『浮草』の若尾文子は、川口浩にとっては、静かで何も起こらぬ息苦しい日常からの脱出口だった。
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『アシェンデン』の若き外交官が、ハスキーな声ぐらいしか取り柄の見当たらない、醜い三流芸人に惹かれていくのが、いまひとつ腑に落ちず、読後、そのことを考え詰めているうちに、旅芸人の物語をつぎつぎに思いだしたのだが、結局、これが答えではないかと思う。
容貌もひいで、才能豊かで前途を嘱望され、有力な一族の美しい令嬢と婚約した若手外交官、というのは、視点を変えて見ると、死ぬほど退屈な一生を約束された、ある種の牢獄で暮らす囚人ではないか。
そこに、旅のアクロバット芸人という、ほとんどあらゆる束縛から解放された女があらわれたのだ。彼は解放と自由を彼女の中に見たのであって、彼女の非美的容貌も雑駁な立ち居振る舞いも、むしろ、その自由への期待を補強するほうに働いたのだろう。
モームはこの物語を、聞いたままに書き記しただけであって、彼の作為は何もないのかもしれない。たとえそうであっても、この外交官が美しくもない女に恋し、その念を断ったことを老いてひどく後悔していることに変わりはなく、その意味を考えつづけ、そういう当面の結論を得た。
(思うに、聖と俗、神と鬼、善と悪、美と醜、黒と白、こうした両極端のペアは、反転しうるもので、じつは見かけほどかけ離れたものではなく、若き外交官は、醜の中に究極の美を発見した、という解釈も成り立つかもしれない。)
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じつは、このアクロバット芸人はジプシーではないかと想像しているのだが、百年も昔にジプシー差別に配慮して、それを伏せなければならない理由は思い当たらず、まだ結論を出せずにいる。
『伊豆の踊子』や『峠を渡る若い風』は、休暇で旅をする学生が旅芸人の少女と出会う、という構図だが、これはたんに、「定住者」が主体的に日常からの脱出を試みたあとで、非日常世界への具体的な脱出口に遭遇する、というだけのことで、基本的には『浮草』と同じような構造と云える。
フェリーニ『道』のザンパノは、仕事に必要なアシスタントとしてジェルソミーナをわずかな金で買うのだが、彼女の側から見れば、「売られていく哀しみ」のみならず、田舎で貧困にあえぐ日常からの「解放」の喜びもあるに違いない。ザンパノは希望をもたらす「白馬の騎士」でもあった。
◎エルヴィス・プレスリーと小林旭
エルヴィスは何度か旅人を演じていると思うが、とりあえず思いだしたのはRoustaboutという、クラブ歌手が喧嘩沙汰で馘首され、旅に出て、たまたま出合ったカーニヴァル(移動遊園地、巡回遊園地)一座に入り込み、その主の娘に恋し、すったもんだあって、財政的破綻に瀕したカーニヴァルを救う、という物語。
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この場合、どちらも旅人であって、定住者がいないので、これまで論じてきたことにはまらないように見えるが、カーニヴァルの主は妻がいて、娘がいるのだから、移動しながら日常生活を営んでいるわけで、変形された定住者と解釈できるだろう。
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小林旭の渡り鳥シリーズは、こういうエルヴィスの「ギターを持った歌う旅人」というトリックスターぶりにヒントを得たものだろう。
プリークェルとなった「南国土佐を後にして」は別物とみなし、『ギターを持った渡り鳥』を第一作とするなら、ほぼ終始一貫、主人公・滝伸二はつねに流れ者であり、辿り着いた町々で、悪漢(しばしば金子信雄)を懲らしめ、窮地に陥った定住者(しばしば浅丘ルリ子またはその家族)を救う。
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悪徳の町ではあっても、それなりに安定した閉じた社会に、トリックスターが波乱を引き起こし、その土地と人々を変容させる物語であり、表向きの形は多少異なるものの、旅芸人の物語と共通の構造を持っている。
◎芸能と流れ者、神と鬼
ろくに知りもしないことを持ち出すのもなんだが、これは折口信夫のいう「まれびと」「貴種流離」の現代的表現のような気がする。
定住者、常民の共同体ルールに属さない人間は、社会の外にいて、ルールに縛られていない、というだけで、すでにある力を与えられている。だから、定住者は、流れ者を恐れつつも、同時に、畏怖し、近づきになろうとするのだろう。
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われわれの心の中には、恵み多い土地に定住し、集団としての強固なルールを築いて、永遠の静かな安寧と繁栄を得たいという願いがあるいっぽうで、定住以前の、獲物を追って移動しつづけた狩人の魂が残っているように思う。
だから、どこを生国とするかもわからない旅人に反撥し、排斥する人間があらわれると同時に、近づきになり、彼を敬い、厚遇する人間もあらわれるのだ。
たぶん、これは芸能の発生と強く結びついている。だから、物語の中での旅人はしばしば芸能者なのだろう。彼らは、安寧だけを願う定住者には不可能な冒険ができる、一種の神なのだ。だから、いまでもメディアには芸能者に関わる話題があふれているのだろう。
◎世紀の旅芸人一座
ふと、ビートルズのことを思った。I Wanna Hold Your Handという映画があった。ロバート・ゼメキスの処女作で、1964年2月のビートルズの「アメリカ上陸」の際の、エド・サリヴァン・ショウでのライヴを見たくて、矢も楯もたまらず、ニュージャージーからNYに駆けつけたティーネイジャーたちが巻き起こす騒ぎを描いた、さすがはゼメキス、栴檀は双葉より芳し、という秀作だった。
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考えてみると、66年夏、サンフランシスコはキャンドル・スティック・パークで最後のライヴをおこなうまでの彼らは、史上最大の旅芸人、世界中の子供たちをこの世の外へさらって、解放してしまう神だったのかもしれない。
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