小袋成彬 - Piercing にまつわる雑文だけどひょっとしたら正解を射抜いているかもしれない文

最後にも書いてるけど書きながら考えたほぼそのまんま。ちょっと寝かせて見直すと雑い部分多々あるけれど大枠と真ん中はいい線いってる気がする。

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なかなかに受け止めきれていない部分がある。傑作か駄作かというような全体の評価はまだ保留。
ただ、「In The End」「Snug」「Three Days Girl」と間断なく続く流れとそこから少し息をついての「Down The Line」。ここはめちゃくちゃ良い。どうしようも無く良い。信じられないくらい良い。

まず前述中からブランク無しに並ぶ3曲。歌メロ展開自体はともかく、それを取り囲むプロダクションは歌謡曲〜J-POPのプロダクションの典型とは真逆にすら近い、特に「Snug」の一番ブツブツなってる部分…これはシーケンシャルなゲートかな?90年代とか00年代にメインヴォーカルが”繰り返す”(あえて”ループ”ではなく)重要な言葉が並ぶ部分にこんなエフェクトかけようとしたら、商業的にどうこうと言うマネジメントサイドだけでなくクリエイティブな意味でのプロダクション側からも「歌という音楽でいちばん大事な部分に云々」とか言われてぶん殴られてたんじゃないかと思うけども、かけているエフェクト、ミキシング手法、そういうものを言語化すればかなりの部分が歌の”否定”に繋がるようなものにも思えるのに、結果的にはむしろ全てが”歌を聴かせるためのサウンド”になっているようにも思える。
これは日本語の歌の聴かせ方に対する革命になるかもしれない。SONYは財力の全てをつぎ込んでこの3曲の大型タイアップという社会実験をやってほしい。上手くいけば2年後にはJ-POP界全体でこの3曲のようなプロダクションこそが”歌を大事にするプロダクション”だという風潮に様変わりしているかもしれない。サンレコとかで「ヴォーカルを大事にするということは云々」と化石みたいな講釈打ってる大物もなんだかもっともらしい理屈と共に簡単に手のひら返すくらいに。

で、そこから少し間をおいての「Down The Line」。
この泣きの歌メロと絡む泣きのギター、これ、こう書くとひょっとしたら怒る人とかいるのかなあ、でも、Eric ClaptonとかSantanaの世界観でしょう、完全に。
中盤にハードなビートが入るけども、あざといサイドチェインコンプのうねりを伴うEDMですよ、2019年も終わろうかという時期に。これ、現代的というよりむしろそれこそクラプトンやサンタナの世代がやっちゃって「ああ、色気出してしまったジジイのダサさよ!」となりそうなやつじゃないですか。
でも、流れで聴いてるとそのビートも「ここでそう来るか!」と思ってしまう。
そう思わせる背景には、既に指摘も多いが先述3曲も含めて本作のプロダクションが明白にSolangeによる2019年最大の、いや2010年代最大の、いやポップ・ミュージックがアルバムという概念を産み出して以来最大の、かもしれない、偉大な作品『When I Get Home』の強い影響が感じられるという事がある。Kanye West『Jesus Is King』と近いという声もある。個人的には確かにそれらにも近いサウンド・コラージュ感がありつつ結果的にコードやメロディの派手な展開による明白なエモーショナルさを伴っているあたりはTyler, The Creator『IGOR』が近いような気もしている。あとこれらに比べコマーシャルな規模は遠く及ばないがFear Gortaという謎の集団の同年デビュー作もサウンド・コラージュ的でちょっと似ている。
何にせよ、そういったUSビッグネーム最新作の匂いを既に持ち込んでいる事が、「今更EDMの典型持ってきて『若い子に人気の最新のビートがこれだ!』なんて事思わんやろう小袋くんは」という信頼感に繋がっているからこそ「ここでそう来るか!」と思えるわけだ。

で、これ、実は前作からなのだけど、先に並べた2019年作を思わせるようなプロダクションを敷いておいて、あくまで歌メロはともすれば演歌的な泣きメロである事、そこに最も付随させる楽器として歪んだエレキギターを選んでいる事、ここに多分小袋の作家性の核がある。
前作、宇多田ヒカルプロデュースという事でJ-POP的ファン層を射程に入れている事は当たり前だろうと思わせた事が好事家の耳をぼやかせたかもしれないが、こう考えたらどうでしょう。
”Frank Ocean『Blonde』を下敷きにしたプロダクションでChris Daveを招いた若手のデビュー作はエレキギターをバックに尾崎紀世彦ばりの美メロ歌い上げ大会!”
……『分離派の夏』の説明としてたぶんそんなに間違った事は書いてないと思うのだけど、ちょっと何を言っているのかわからない感がある。
まあギターというのは『Blonde』でも重要な要素だし、"尾崎紀世彦ばり”とは少々強調しすぎ…いやこれは意外とそうでもないでしょ。とにかく少々先の表現に問題があるとしても、ドラマティックな歌メロへのこだわりと現代US的なプロダクションへの齟齬…そう、齟齬と言っても良い、それを抱えていることが実は重要で、そして見過ごされてきたんじゃないか。
そして前述アルバム群のような2019年のトレンド、コラージュないしカットアップ感覚というのは、当然歌謡曲的歌メロ(こと「Down The Line」はモロに歌謡曲というより歌謡曲時代のリファレンスとなったロックやソウルという感が強いが)やそれを歌い上げる事と相性が悪い、つまりより齟齬が大きくなってしまう…というのが一般的な感覚だっただろう。この作品が出るまでは。
本作においてその旧来的な感覚に小袋はどう対峙しどう乗り越えたのか。

まあ”泣きメロ”なんてものをどういう事かと定義するのは馬鹿らしいのだけど、概ねベーシックなコード・トーンに沿いつつ7thとか9thとかの攻めすぎないテンションを交える程度だがしかしある程度大きく動くメロディ、と大雑把に最低要件を捉えても、「Down The Line」以外の曲でも結構そういうメロディはあるので"泣き”のツボにどの曲が一番ハマるかは人それぞれとしか言いようが無いのだが、古臭いメロドラマ的な情動の喚起要素と言えるものとして「Down The Line」にしか無いものはブルース・ペンタ系ギタリストの手癖の範疇で歌の間を縫うオブリガードだ。
こういうのその手のロックやソウルを通っていないとむしろ情動を邪魔するもの煩いものとして聴こえてしまうのかもしれないがええいうるさいジジイはこういうので泣くんだ悪かったな、小袋くんも多分こういうので泣くジジイなんだ、”泣き要素”的なもののピークはこの「Down The Line」に意図して置いたと考えても良いと思う。

その”古臭い泣き要素の塊”をいかにさも現代的なものに見せかけるか…『Piercing』という作品全体ただそれだけのための作品なんじゃなかろうか。
こう書くと悪い意味で含みのある書き方と思われるかもしれないが、音楽以外も含めて”ただ〇〇だけのために全体の体裁を整えた”作品は大抵の場合意外なほど強度を持つ。
泣きメロをごまかすためにソランジュを引用しカニエに目配せをしなんかタイラーっぽくもなったりした。
「Down The Line」の直後にハードなビートの上でTohjiがラップを披露し唯一歌を完全に排した身も蓋もない名前の「Tohji's Track」が間を置かず流れてくるのは、なんとなく急いて現れた照れ隠しのようにも思える(後半で調性感を強調しすぎずさりげなく「Down The Line」のコード進行を復活させるのは「コンセプト通さなきゃ」という理性か)。
その虚飾といってもいい装飾を、”ごまかすため真摯に”積み上げていった先に、本来”齟齬”であった場所を埋めていった先に、だからこそ「In The End」〜「Snug」のような”革命”が”副産物”として産まれたのではないか。そういう作品なんじゃないか。

掴みきれていないと最初に書いたけれど、書いてるうちにだんだんこれわりと正解な気がしてきた。そして「Down The Line」を素晴らしいと思える事、それ以上にこの作品の評価基準なんて事を考える必要は無い気がしてきた。

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