誰よりも幸せな「死」を迎えるために〜映画『ハッピー・デス・デイ』レビュー〜

⚠️この文章は映画『ハッピー・デス・デイ』と『アベンジャーズ〜エンドゲーム』に関する壮大なネタバレを含んでおります。

2019年公開の映画で最大の注目を集めた作品といえば、やはり『アベンジャーズ/エンドゲーム』であることは衆目の一致するところだろう。あの最強最悪のヴィラン、サノスの指パッチンによって全宇宙の半分の生命が失われた前作の絶望的ラストからヒーローたちがどのように逆転劇を見せてくれるのか、11年22作品にも及ぶMCUの集大成としても誰もが待望の超大作だったといえる。かくいう僕も、この壮大な旅を同時代に並走しながら無事に感動と惜別の涙とともに見届けた観客のひとりである。なんてったって11年、アラフォーがアラフィフになってしまう年月である。うっかり死んでしまっててもなんら不思議ではない。ならば2019年のベストムービーは?というと、そこはもちろん『エンドゲーム』・・・ではない。僕が去年いちばん心揺さぶられた映画、それは『ハッピー・デス・デイ』とその続編『ハッピー・デス・デイ2U』、2作合わせても『エンドゲーム』の製作費の25分の1で作られた、青春スラッシャーホラーだ。

『ハッピー・デス・デイ』というタイトルを聞いて「なるほど!ハッピー・バースデイを文字って作られたのか!ありそうでなかった、秀逸なタイトルだ!」と思う人は、まずいないだろう。むしろこの安易なタイトルからは芳しいB級臭すら漂ってくる。しかもこの作品、パート1は2017年公開作だというのに、日本では2年遅れでの初お披露目。2年もあれば続編作れるんじゃね?と思っていたら、パート1の公開2週間後には2も封切られるというやっつけ仕事っぷり、普通なら嫌な予感しかしない。だがしかし、もう一度言おう。僕の心を最も揺さぶった2019年の映画は『エンドゲーム』でも『アイリッシュマン』でも『ローマ』でもなく、この『ハッピー・デス・デイ』二部作なのだ。

 粗筋はこうだ。サノスばりに「世界の中心は私にある」と思い込んでいる自己中ビッチ系J D(女子大生@金髪)の主人公ツリーは、自分の誕生日の朝、見知らぬ男のベッドで目を覚ます。父親からの電話を無視し、変わらぬ退屈な日常を過ごしたその日の夜にツリーは「ベビーマスク」を着けた殺人鬼にアッサリと殺されてしまう。絶叫とともに目覚めたツリーだったが、そこは誕生日の朝に目覚めた部屋、そうツリーは「誕生日に何者かに殺される」という最悪な1日を何度も繰り返すことになるのだった・・・

ところで、ホラー映画というジャンルはいくつかお約束的なものがあって、その代表的な一つが「ファイナルガール」と呼ばれる、映画のクライマックスで殺人鬼と対決するヒロインは必ず処女でなければならないというものがあるのだが、このツリー、どこからどう見ても処女ではない。泥酔して見知らぬ男のベッドで目覚め、後腐れありまくりのワンナイトラブの相手には「短小」と罵り、ゼミの教授とは不倫関係にあるという、純度、いや不純度120%、完全無欠のビッチ。「ファイナルガール」というよりは、序盤であっさりと殺されるセクシー担当の脇役キャラで、開始15分で殺されてもさほど可哀想とも思えない、全くもってしてホラー映画のヒロインに相応しくないのだ。ところが、何度もループする彼女を見ていると、その直向きさやタフさが段々と魅力的に感じてくる。性格ブスも3日ならぬ3回ループで慣れてしまうとでもいうのだろうか。そして物語が進むにつれ、なぜ彼女がやさぐれてしまっているのか、その理由も明らになってゆく。このマイナスから反転する人物造形が見事で、いつの間にか「どーでも良かったビッチキャラ」を応援せずには居れなくなる。よくよく考えてみるとツリーはいの一番に「殺されて」いるのでそもそも「ファイナルガール」ではない。つまりこの物語は、従来のホラー映画では「被害者A」でしかなかった存在にフォーカスすることで、従来のホラーメソッドから逸脱することに成功した、全く新しいホラー映画と言えよう。


だがこの映画が真に優れているのはそこではない。小気味よいループの描写や一歩間違えればドン引きされかねない、絶妙な下ネタの数々、でもない。
ジャンルとしてはいわゆる「ループもの」で、それ自体に目新しさもない。同じ1日を繰り返すという点なら『恋はデジャ・ヴ』と同じだし、死に戻るということなら『Reゼロから始める異世界生活』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』にも使われた設定だ。だが、この二つを掛け合わせると少し違う世界が見えてくる。主人公のツリーは自分の誕生日に、何度も何度も、様々な殺され方をしては生き返るのだが、その度に彼女は死の苦しみを味わうことになる。刺殺、撲殺、落下死、溺死、爆死etc.それはもう、ありとあらゆる殺害方法で殺されまくっては生き返るのだが、これを観た時、僕はある場所のことを思い浮かべた。あれ、こんな風に何度も様々な殺され方をしては生き返ってしまう場所あるんじゃないかと・・・その場所とは、永遠の責め苦を受けながら、自らの罪に向き合う場所、そう「地獄」だ。「同じ日を何度も生きると不思議なことに・・・本当の自分が見える」これは作中のツリーのセリフだ。何度も地獄へ死に戻ることで、ツリーは人生から逃げていた弱い自分自身に気づき始める。そして物語は決定的な瞬間を迎える。唯一の相談相手だった、リセット部屋の主カーターが、ツリーを助けようとして殺人鬼に立ち向かうも返り討ちにあって命を落としてしまう。混乱の中、鐘楼へと逃げ込むツリーは、遂に殺人鬼の隙をついて殺すチャンスを得るのだが、その時彼女の頭にはカーターのことが過ぎる。「このまま殺人鬼にとどめを刺して明日を迎えてしまうと、カーターを永遠に失う」初めは殺人鬼を突き止めループの外へ脱出するというあくまで「自分の為の」死に戻りでしかなかったことが、この時初めてツリーは「他者の為に」自らの死を選ぶ。死に戻る度に自身の体が弱ってきていることを自覚し、次はもう死んだままなのかもという不安を感じていたにもかかわらず彼女は躊躇なく、鐘を鳴らす為のロープに首を括り、晴々とした表情でダイヴする。そして文字通り、彼女の命の重みで鐘楼の鐘が鳴り響く。ツリーの魂の再生ともいうべきこのシーンが鐘楼であったことは偶然ではないだろう。


カーターの部屋のドアには象徴的な言葉が書かれたステッカーが貼られている。
「今日は残りの人生の最初の日」
サム・メンデス監督の『アメリカンビューティー』でも引用されていたこの言葉は本来、ポジティブな生き方に向かう為の格言なのだが、理不尽に殺され、死に戻りさせられまくるツリーはもちろん、そのループを見続けている僕たち観客にも皮肉で苦々しい呪いの言葉のように見えてしまう。だが映画の終幕には、この言葉もまた本来の意味を取り戻していく。「地獄」は「自業苦」でもあるという。自ら作り出した業苦の炎で焼かれている限りは、どんな素晴らしい言葉であろうとも届かない。だがしかし『ハッピー・デス・デイ』このチープなタイトルですら輝かせてしまう映画の力に僕は震える。誰よりも幸せな「死」を迎える為に、僕たちには実は地獄が必要なのかもしれない。

と、ここまで褒めておいて、一つ伝えねばならないことがある。それは、このパート1はあくまで壮大な前フリでしかないということだ。真の大傑作は続編の2Uであり、いや1に対する2が誕生したことで、このシリーズが唯一無二の作品として完成したというべきか。いずれにせよ、それはまだ別の機会に。

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