なぜインディカは作中でレトロゲーム調の演出を用いたか
プレイ時間:5時間程度
わからなかったゲームを少しでも理解するため筆をとったが、白状すると考察になりきれてない。しかし、書くためにインディカを再プレイしたし インディカのことを好きな気持ちが深まった。
「奇ゲー」
インディカは今年5月のリリース以降高い評価を得ており、あまり内容を知らないなりに「宗教や哲学をテーマとした良質パズルアドベンチャー」を期待して購入した。
導入は非常に良く「悪魔の声が聞こえる修道女(インディカ)」と「神の声が聞こえると自称する脱獄囚(イリヤ)」が「奇跡を起こす神器」を求めて旅をする…という筋書きは面白そうに見える。インディカは機械に強く、イリヤには音楽の心得がある。そういうちょっとしたアクセントもあり、キャラクターは魅力的だった。
しかし進行に従い、前述のあらすじは自分が勝手に読み取った間違った認識だったのではないか…?という思いが強くなる。
そんな混乱の中 顛末を期待したあらゆる要素が壊れた先でエンディングに辿り着き、わけもわからず考察を求めた果てに目にした「奇ゲー」という評価に納得した。
価値あるゲームだが万人受けするものではない。インディカの全てを理解できるプレイヤーなどいないと思うし、全てに意味があるのか?という疑いもある。
信仰が深く関わる描写は特に日本人にとって理解が難しい。筆者も作品への理解を深めるために正教会の考え方などを調べたが、思考がまとまらずにいた。
ただ、インディカについていろいろ考える中で、表題の「なぜインディカは作中でレトロゲーム調の演出を用いたか?」というトピックに対するゲーマー目線の考えが纏まったため筆を取った。
これは本当にインディカを構成する脇道の1トピックに絞った考察に過ぎないが、ゲーマー目線による考察であるため 宗教観へ踏み込んだ要素がなく理解はしやすいと思う。「遊んだけど一切何も分からなかった!」という人の理解の一助になれば幸いだ。
※※※以下ネタバレを含む既プレイ者向け記事
好きだった演出など
考察の前に、せっかく既プレイヤー向けの記事にしたので、インディカのどういった部分が好きかを記録する。
一番好きだったのが、ついに神器と対面したシーン。直前に神父が撃たれるところから現実性のない描写で良い。3つ数えたら撃つと脅されながら、イリヤは神器に祈りを捧げてキスをする。しかし、奇跡は起きない。切断された腕は修復されない。
インディカは(元々の福音からして)「神は治してくれはしない」と分かっているし、プレイヤーも似たような認識だろう。しかしイリヤの中には信仰があり、必死に祈る。カメラワーク・演出・表情は「もしかして」という期待を沸き立たせる。しかし、奇跡は起きない。
非常に苦しく、切なく、印象的なシーンだ。
この記事を書くにあたって日本人による感想記事を何件か読んだ。その中で悪魔の問いがよく分からないと評されるのを見たが、筆者はこの問答も好きだった。特に好きなのが「犬は常に正しい」「暖かさがあるから寒さを感じられる」という話だ。
悪魔がインディカを抱きとめるシルエットも良い。散々忠告された通り「意味のないポイント」が失われていくのも良かった。
シーン単位だと 転落した犬を捉えたカメラのアングル、水車が犬の首を叩き続ける描写。閣下が流氷の上で死にゆくシーンも特徴的だった。
ストロボのシーンは製作側もいいシーンとして作っていると感じた。狙い通りこのシーンも好きだ。
雪積もるロシアの空気感がこれでもかと伝わってくる。近くで見ると まあポリゴンによるグラフィックなのだが、遠景は実写と見紛うほどだ。これはお世辞として言っているわけでなく、本当に制作過程で写真を取り入れているのでは?と感じた。
だからこそ、景色の中にふと現れるレトロゲーム的な演出が浮く。左上に表示される経験値をはじめ、アイテムの入手時に出現するアイコン、BGMがチップチューンである…などだ。
遊んでいる間は「この演出はゲームへの没入感を削いでいるが、何か狙いがあってこうしているのだろう」と思っていたが、最後まで遊んでも分からなかった。ただ、インディカをクリアして もやもやした思いを何とかしようと考えていた時に、「こういう意図だったのでは?」という閃きが降り記事ができた。
(余談)何が現実で何が幻覚かわからない
筆者はこの作品に対し「すべての要素が壊れた」と評価した。最終盤、神器は質屋に流され、必死に集めた経験値はすべてバラまかれ、イリヤは尿に濡れたズボンを履いたままトランペットを吹いている。
この作品は現実が狂気に侵食されていく、どこまでが現実か分からない描写をしているのだが、あろうことか筆者は部屋がループするパズルに対面するまでこの構造に気付くことができなかった。
なぜか普通に受け止めていたが、巨大な魚缶も非現実を描写するためのものだったらしい。
なんで気付かなかったんだ。
すると疑問となるのが「どこから狂気に侵食されていたのか?」という点だが、これは非常に分かりにくい。序盤は幻覚と現実が分けて書かれていたはずだが、思えば最序盤から 歩くには険しすぎる道程を進んでいたし、大きな犬も、大きな水車もそもそもおかしかったのかもしれない。
これについては明確に意識が途切れたのがバイク転倒後であるため、そこが一つの境だと考えている。
例えば腕を切断された後 合流した後のイリヤは幻覚だと考えている。根拠は「あの真理的分断を経て突然戻ってこないだろ」程度しかないが。
(本題)なぜインディカは作中でレトロゲーム調の演出を用いたか
筆者ははじめて遊んだ際 いきなりいかにもゲーム調なミニゲームが始まり面食らった。同時にこのゲームの副目標としてポイント収集という遊びが存在するのだとプレイヤーは学ぶ。ポイント周りのシステムはゲームの雰囲気から浮いているが「そういうものなのだろう」とこの時点では納得できる。が
このレトロゲーム調の描写について、「2Dパート(インディカの過去)」と「3Dパート(現在)」で分断されているのは分かりやすい。2Dの時系列的未来が3Dであるとか、過去の思い出の方が情報量が削ぎ落とされているとか、要素が持つイメージにも合っている。
筆者はまずこの点に注目し【現在のパートに2Dゲームチックなレトロ演出が混ざるのは、過去との連続性を狙った演出】という仮説を立てた。現在軸におけるレトロゲーム調の演出の多くはポイントの獲得、レベルアップと紐づいている。過去から連続するインディカの人生経験を、ゲーム的な経験値として表しているのではないか。
この仮説により、ゲーム開始時点でそれなりのポイントを獲得していることに説明がつく。
一方、悪魔との対話でポイントを失う描写との整合性がつかない。確かに人生観を否定されるシーンではあるが、これまで人生で培ってきた、過去から連続する経験すべてを失ってしまうのは妙だ。ここをきっかけにゲームの崩壊は加速するが、インディカはそれなりに己を保っているように見える。
また、過去パートで取得したポイントが現在所持しているポイントに加算されるのも仮説に反する。
後者の問題から、過去パートを想起させるためにレトロゲーム調の演出を選んだのではないと結論付けた。
次に、前述の通りレトロゲーム調の演出はポイント獲得に紐づいていることに着目して考えていく。
ポイントを得る条件は「アイテムを入手する」「火を灯す」、「タスクを完了する(初回のみ)」「ミニゲームで触る(過去パート)」ことだ。うちゲーム中に頻出する前2つの行為に見られる共通点は「信仰心に従った行動を取る」ことだろう。つまりポイントとはインディカの信じる宗教における善行の積み重ね、カルマ値のようなものに見える。
ところで ポイントの獲得や信仰に絡めて外せない存在として「神器」がある。
神器に祈っても切断された腕は治らないし、空の器に権威はない。しかし神器にまつわるふるまいのうち、プレイヤーにとっては奇跡のように見えるものがあった。それこそが「ポイントの付与」だ。
しかも単にポイントを付与するだけではない、神器はプレイヤーが望む限り 好きなだけポイントを発生させる装置だ。
ゲーム開始時とともに当然のように存在したポイントは、多くのプレイヤーにとってのモチベーションだったはずだ。少なくとも私はポイントを効率よく集める要素にゲーム性を見出し、ストーリーと並んでモチベーションとしていた。それはマップを隅々まで探索し、アイテムを探す動機だった。
しかし、インディカにとってはどうだろう。インディカはアイテム取得時のアイコンを見ても、レベルアップをしても何の反応も示さない。「ポイントに意味がない」という情報は、幕間にプレイヤーに与えられるだけの情報だ。
一番わかりやすいのが序盤の水を汲むシーンだ。プレイヤーにはタスクを完了することでポイントが与えられると提示される一方で、インディカは内心「何の意味があるか分からない」と考えていると説明される。
つまり【現在のパートに2Dゲームチックなレトロ演出が混ざるのは、プレイヤーから見る世界とインディカの現実を分断させる演出】なのではないか?ということだ。
なぜ世界観から浮くような演出を取り入れたのか?といえば、そのまま「世界観から浮かせる」事が目的ということだ。そして、ここで言う「プレイヤーの視座」は「神の在る世界」「神の力の及ぶ世界」となる。この演出により分断されるのは、プレイヤーとインディカの世界であり、神とインディカの世界だ。
神器は奇跡の力を持っていたし、この世界には善行に対する報いがあるが、奇跡も報いもインディカ及び作中人物に救いをもたらさない。「信仰には確かな力がある」ことと、「その力を意味のあるものとして感じられるとは限らない」という表現を両立させるために、世界観に馴染まないビット調の演出がなされているのではないか。奇跡は誰の役にも立たないが、確かにそこにある。
ラストカットにて、三人称視点で進行していたこれまでとは異なりインディカの視点に移る。クライマックスの臨場感を高めるとか、物語を客観視させずインディカの目線にプレイヤーを巻き込むとか、意図はある程度想像できる。
この視点で特徴的なのは、いままでたびたび姿を見せていた悪魔が インディカの鏡像として現れることだ。
鏡の中の己の姿にインディカは特に反応はしない。ただ一人称視点で鏡越しに悪魔を写すのは、インディカ越しにプレイヤーに悪魔を投影させているように感じる。
鏡を見るシーンこそが、先の「神器から好きなだけポイントを絞り出すシーン」だ。プレイヤーは悪魔の姿と鏡越しに対峙しながら、(なんの意味ももたらさないとわかっている)ポイントを求めてボタンを連打する。連打するほど「恥」や「後悔」のスキル選択をせねばならず面倒臭い。インディカは救いを求めて神器と対峙しているのだろうが、プレイヤーは欲(しかも正体も意味もわからない欲)のためにボタンを押す。
このシーンをプレイしている時の感情は「罰を受けている」だった。割とゲーマー罪を感じたシーンだ。なおポイントは際限なさそうだったのでやめた。
そんな感じ。
まとまりのない考察で、ポイントと結びつくのは善行?悪行?(そのふたつを明確に区分してない気はする)など散らかった部分が目立つ。記事を書くにあたって実績の条件(「数回失敗する」と「ノーミス」が混在しておりなかなかアレ)を調べたり、再プレイし「このゲームのこと好きかもしれない」と改めて思った。