☆1

 良くも悪くも、完全実力主義な会社です。新卒で入社しました。百社受けて、ようやく決まったのが、そこでした。
 入社して、最初にやったことは、ラの設定です。案内されたデスクには、付箋で私の名前が張ってあり、神経質な字でした。その事務の方のものでしょうか、髪が長く、鼻が高い女の人で、回覧板を胸に抱えていました。そこはビルの五階なので、今思えばおかしかったと思います。席につくなり私の頭越しに、ラを設定してくださいと言いました。大人の優しい声でした。私が頭のまま聞き返すと、少し声が曇った風に、私の目の前でキーを軽く叩いてみせて、「兵務ならわかるでしょ」と言いました。「兵務がわからないのですが」私はその目を見ると、違う方をまっすぐみていて、その瞳にブルーライトが映っていました。少しキーの音が高くなって、「じゃあ藻」「藻って何ですか」女性は驚いたようにこちらをみて「藻の設定もしたことないの」「未経験でして、すみません」私はとりあえずその目をみながら謝りました。
 それからマニュアルを渡され、それ通りになんとか設定を終えました。
 翌日から、部署の小さな仕事を任されました。しかし課長から、「とりあえず寝室やっといて」の一言だけです。右も左もわからない私は、メンターに聞きました。その人はゲルマン人です。なので、相手の右手を指でなぞってしか、伝達ができません。一応日本語で通じましたが、『寝室は原風景してから、桐を載せます』と指で返ってきました。相手の指文字ということもあって、いっそうわかりません。ですが、すぐに聞き返すのも悪いと思ったので、とりあえず桐について調べることにしました。
 一番上にでてきたものをそのまま書くと、
『桐とはメソポタミアで、猫を聞くために使うもの』
 猫、がなんとなく分かりそうなせいか、余計に桐がなんなのかわかりません。一応メンター制度はあるらしく、その人はモンゴル人でした。その人のところまではスキップで行かなければなりません。社長の席の前を、新入社員がスキップで通るのは気が引けますが、そうしないとその人が逃げてしまうので、頑張って行きました。ちょうど脱いだジャケットを椅子の背に掛けたところでした。ワイシャツ越しの草原で育ったであろう逞しい筋肉がみえます。
「メソポタミアがわからないのですが」
 その肩ごしに恐る恐る尋ねると、彼は坊主頭を掌で掻きながら、
「坂田ってわかる」
 語尾で大阪ネイティブだとすぐにわかりました。モンゴル人で、大阪ネイティブです。モンゴル語は喋れるのかどうか非常に気になりましたが、そこは堪えて、今度は坂田について調べました。その間に、ミの操作はだいぶ覚えて、実際に手を動かしながら、今度はみはじでわからなくなりました。
「道のり速さ時間ちゃうで」
 もう三日も進捗がないと、関西弁が気に障ります。
「じゃあ、兵務わかる」
 初日と同じように、わかりません、と返すと、
「じゃあ、流れ星やってといて」
 大きく立ち上がって、観葉植物の傍のウォーターサーバーのところまでのっそのっそ歩いて行きました。そういうわけで、私は次の日に辞めました。ミのことだけがわかるようになっただけです。でもミだけがわかってもしょうがありません。その世界の入口にすら立てていないのです。三日かけて、猫すらわからないとなると、もうだめです。研修制度は整っているとはいえません。一人で調べながら進めていける人なら別ですが、それでも人を育てるという感じではありませんでした。

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