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2024年1月13日(土)

この日は17時頃から雪が降り出し、強風と共にママチャリでフードデリバリーの仕事をしている石丸に叩きつける。寒い。寒すぎる。手袋も濡れて使い物にならなくなってしまった。下北沢の古着屋で800円で買った厚手の黒いコートのフードを深く被りながら、千歳烏山付近を自転車を漕ぐ。いつも聞いてるポッドキャストもコンディションが悪いため、語られる言葉が右から左へ通り過ぎていく。

注文が鳴った松のやに入る。流石にこの天候で客は1人もいない。株式会社松屋フーズの温かさが身体の奥底に染み渡る。女性の店員からかつ丼が2つ入った袋を受け取る。どこか憐れむような眼で見られたような気がした。石丸が商品を受け取るカウンターの座席にフードの端から雪の水滴が落ちたのが見えた。

降り始めから1時間後くらいには雪は止み、この日は最終的に5時間で1万5千円稼ぐ大量報酬になるので(時給換算すると1時間3千円)、結果的に働いて大正解の日だったわけだが、その渦中は「やめたい。帰りたい。やめたい。」をマスク越しに呟きながら涙を目に溜めていた。ちなみにマスク越しに小声で何か呟いていると、その吐息で顔のマスクで覆ってる部分が温かくなるので、愚痴を吐くことが生存戦略とも言える。何とも皮肉な商売だ。

2個口のかつ丼を下高井戸の一軒家に配達し、次は高井戸のマクドナルドに向かう。その途中で、頭に入ってこないポッドキャストからApple Musicの新着プレイリストに切り替えて、その1曲目でケツメイシの新曲が流れてきた。

「また懲りずにアイツが頑張ってる」
陰で言われては嫌になってる
もう僕の力ではどうにもならない
なんて思い始めるのは早い
本気でやるのさ 耐えながら
すると陰ながら 見てる誰かがさ
その思いは周りに伝わって
1人また1人と繋がってく

ケツメイシ「We GO」

ケツメイシの中で一番ラップがテクニカルで甲高い声のRYOが、何の特徴もないピアノ主体のJ-POP的なトラックの上で、自分のラップスキルを提示することもなく、ただただ「人を励ますため」のラップをする。

誰にも気付かれないような細やかな勇気でも
誰にも気付かれないような僅かな一歩目でも
きっと君の背中を追いかける誰かがいるから
躊躇わないで 怖がらないで
行こう 行こう 行こう
We go  We go  We go
You go  You go  You go

ケツメイシ「We GO」

サビを担当するRYOJIもそれに呼応して「J-POPを歌う人」をやってくれてる。この人も元々はラッパー出身だったが、「行こう」と「We go」を掛け合わせる、結成30周年を超えたヒップホップグループとは思えない韻を聞かせてくれる。

石丸はこの曲で歌われている「誰も見ていないかもしれないけど、君の努力はきっと報われる」というJ-POP的メッセージが胸に響いてしまい「良い曲だな…」と少し泣いてしまった。これまで目に溜めていた涙が頬を伝い、少し顔が温かくなった。それと同時に「今の俺みたいな、心身ともに疲弊した人が高い壺を買ったり、陰謀論にハマったりするんだろうな」と思った。

ケツメイシは不思議なグループで、その同期くらいと思われるRIP SLYMEやKICK THE CAN CREW、その他多くのゼロ年代で生涯収入稼いだラッパー達はJ-POPシーン(にも居つつ)からヒップホップシーンに戻ってきた感はある。それは言わずもがな、テレビ朝日『フリースタイルダンジョン』以降の日本におけるヒップホップブームによってバトル文化を中心に市民権を得たことで、当時J-POPとして売れていたRIP SLYMEがヒップホップの現場について話をしたり、KREVAがバトルやビーフについて語ったり、LITTELEが超絶テクニカルなラップを披露することが増えたように思う。

ただケツメイシだけは、J-POPシーンに留まってヒップホップについて歌うことも語ることもほとんどしていない。例えば名盤『ケツノポリス2』収録の「ケツメの作り方」は、ケツメイシがどのようにして今のメンバーで結成されたのかを語る自伝的楽曲である。

ライムスター・キングギドラ・ペイジャー
歌詞覚えた 全てを歌えた
オレもいつかはここのステージって
オレいつになればケツメイシ

ケツメイシ「ケツメの作り方」

当時、一番後輩だった大蔵がまだRYOに認められずメンバーになれないことを歌った箇所だが、今のケツメイシからRHYMESTER、キングギドラ、MICROPHONE PAGERの影響があったと誰が想像するだろうか。こういうバックボーンを歌うことはもう無いように思える。

やはりグループ最大のヒットソング「さくら」が転換点だと思うが、ターゲットをヒップホップやレゲエリスナーのような「音楽好きの人達」ではなくJ-POPリスナー、即ち「音楽に興味がない人達」に定めて活動を決めたのだろう。その結果、もう元には戻らない、ヒップホップやレゲエの現場に戻らない。そういう曲を作るグループになった。例えば湘南乃風はレゲエとヤンキーキャラが相まって人情やパーティーソングを歌うことに説得力が増し、セールス的に成功したグループだと思うが、メンバーの若旦那はインタビューでこう語っている。

「若旦那」っていう看板の中でやるのが、ちょっと限界だなって。今はもう全然違う音楽をやってるし、見ての通り長髪だし(笑)ぐりぐりのパンチパーマから長髪になって、若旦那っていう名前のままだと「どうしたの」「何がやりたいの」って、また言われちゃう。そんな生産性のない会話、僕は嫌いだし。だったら、若旦那じゃない本名の新羅慎二でやろうと。

失敗よりも怖いのは、歩みを止めること――回さないタオルと、若旦那の決意。

若旦那は湘南乃風ではパンチパーマにサングラスの強面キャラだったが、本名の新羅慎二名義での活動は長髪でギターで弾き語り、アー写はムーミンに出てくるスナフキンのようになっている。このように1つのキャラクターが売りとなって成功した人間は、どこかそれに限界を感じて「本当の自分は何なのか?」を探しがちになる。特にヒップホップやレゲエをバックボーンにした音楽をやっている人は尚更だ。ヒップホップからJ-POPシーンの第一線で売れた人が自分のバックボーンであるヒップホップに戻っていくことはとても自然なことだ(新羅慎二が自身のバックボーンとしてレゲエではなく弾き語りに行ったのは面白い話だなと思った)。ただ、ケツメイシは戻らずにJ-POPで在り続けている。

J-POP歌手は改めて、めちゃくちゃ台本を読み込んでいる映像俳優っぽいなと思う。自身の表現のエゴは一切なくて、監督や演出家の指示通りに演技ができる人。「これがやりたい」「あれがやりたい」という欲求で動いていない。「かましてやろう」なんて思うわけがない。見てくれる人や聞いてくれる人のため、お金を払ってくれる人のためだけにやっている。我が見えてこない。「フラストレーション溜まっちゃわない?」と聞きたくなるくらいの仕事人間だと思う。ポッドキャスト時代の『東京ポッド許可局』でマキタスポーツが「役者は意思ある小道具」と言っている回があったが、その意味がJ-POPアーティストであるケツメイシを通して痛いほど分かる。マキタはこう語る。

役者で音楽やる人いるでしょ。そりゃやるわと思った。実感ねえもん。音楽をやらないにしても、何かしら舞台とかライブ。欲がある人ほどライブとかをやりたがる。ただ単に映像の世界の住人としてやってることに関しては、意思ある小道具という酷い言い方をするけど、役者ってどこまでいってもそうだから。

東京ポッド許可局第270回「ブルーリ論」

これは映像役者における反応のなさ故、実感が欲しいために音楽や舞台などのライブに向かうという話だが、これは反転してJ-POPアーティストにも言える話で、J-POPとして消費され続けることへの抵抗として、「こういうつもりで作ってるんですよ」「だからこの曲はすごいんですよ」とインタビューで答えるネット記事や番組を見ると「実感が欲しいんだな」と思っていた。石丸は『関ジャム 完全燃SHOW』に出てくるJ-POPミュージシャンやプロデューサーというのは、我が出したくて仕方がないけどJ-POPという消費世界にいるからそれが出来ない故に、言い訳がしたい人達なんだろうなと思っていた。

それに対し、ケツメイシは全く我を出さない。説明をしない。言い訳もしない。そもそも全然メディアに出ない。ヒップホップの話、レゲエの話も全然しない。J-POPを全うし続ける。初期では垣間見えたラップテクニックも、年々姿を見せないようにしている。フロウとか韻とか技術面で魅せることをどんどんやらなくなっていく。教科書的な"良い歌詞"をそのまま歌う。そう決めた人たち。これは今の時代、日本でヒップホップがこんなにも盛り上がっている時代において、かなり特異だ。ヒップホップを「もう自分たちの持ち物じゃない」と手放したように思える。

ケツメイシの我の無さでいうと、ケツメイシのアルバムには大抵同じような曲が収録されていることが分かる。シングルは「季節(主に夏)」、「恋愛」、「友情」辺りがテーマで、これがアルバムになると「女(主に水商売系)」、「リズム歌謡」、「社会派風」、「自然」、「大義」が入ってくる。細かいことはまた別の所で解説しようと思うが、一つ言うと「大義」は主語がデカい。「日本」「アジア」「平和」「戦争」「家父長」のことを歌いがちで、聴いててゾワゾワした気持ちになってくる。でもこれが「音楽に興味がない」層にハマることもよく分かる。だってその人達にとっては異性と付き合って、結婚して、子供が出来て、彼らに伝統的な道徳を伝えることは自然の摂理だから。で、こういうことを歌うケツメイシを「好きなミュージシャンです」と公言するミュージシャンも全然いないというのはとてもよく分かる話だ。だってその方向にケツメイシ自身が向いてないから。ミュージシャン's  ミュージシャンにならないし、都市部に住む先鋭的なカルチャー好きに引っかからない。chelmicoが「RIP SLYME大好き!」と言っても、「ケツメイシ大好き!」と言うわけがない。一貫して「音楽に興味がない人達」に向けてケツメイシは音楽という名の工業製品を供給し続けている。

またケツメイシの凄いところは、目立ったディスをされてないところであろう。ヒップホップシーンからJ-POPシーンに移行した人たちは大抵怒られている。kjもキックもリップも童子もシーモもコマチもみんなやられたのに、ケツメイシはやられてない。だから、誰も最初からケツメイシのことをヒップホップやレゲエシーンの人達だと思っていなかった可能性もある。「まぁ、それは言い過ぎか」と思い、雪も止んだ18時半過ぎ、10件ほどのデリバリーで東高円寺に飛んだ石丸は改めて「さくら」を聴いてみた。「なげえな」と思った。


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