五十瓊敷入彦命の謎②
五十瓊敷入彦命を考察してみます。
前回もお話しした通り、五十瓊敷入彦命は第11代垂仁天皇と日葉酢媛命の
皇子であり、12代景行天皇の兄にあたります。
父の垂仁天皇は皇子二人に望むものを聞いたところ、
*五十瓊敷入彦命は「弓と矢」(つまり武力を望んだ)
*大足彦尊(景行天皇)は「皇位」(つまり天皇の位を望んだ)
とされています。
ここはまぁいいでしょう。
「弓と矢」を与えられた五十瓊敷入彦命の行動を見てみましょう。
①五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池・茅渟池(ちぬいけ)を造った。
(考察)垂仁天皇の命令とは言え、造営する資金はあった。
②菟砥川上宮にて剣1千口を作り、石上神宮に納めた。
(考察)剣1千口を作るだけの「鉄」を有しており、「製鉄技術」や
「鍛冶集団」なども有していた。当時「鉄」は現在でいう
金やダイヤモンドと同じ価値のあるもの。
③楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・
神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部(集団)を賜った。
(考察)つまり多くの民と多くの領地を賜ったことで、さらに
軍事力や財力を得ることになった。
④五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した
が、自分がか弱いことを理由に神宝を「物部十千根」に授けて治めさせ
た。
(考察)ここで物部氏との繋がりが出てきます。
物部氏は当時の有力豪族で
祭祀はもちろん、軍事力・製鉄技術も有していた。
伊奈波神社も金神社も物部系列です。
⑤垂仁天皇の勅命により河内、大和、摂津、美濃などの諸国を開拓され、
八百もの池溝をひらいた(伊奈波神社由緒)
(考察)河内・大和・摂津といえば、朝廷のおひざ元で、古代から栄えた
国、そこをさらに発展させた。つまり相当利益を得たということ
です。また「美濃」も開拓しているとあります。
では、その時美濃にいたのは誰かというと、
「八坂入彦命」です。
つまり父親である垂仁天皇の兄弟、つまり叔父にあたる
人物です。
「八坂入彦命」は後述しますが、かなり重要人物です。
⑥五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の
成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社
の地で討たれたという(伊奈波神社由緒)。
(考察)この地とは美濃の地であり、そのにいたのは「八坂入彦命」。
この時の「朝廷」は父の垂仁ではなく、弟の景行天皇の
御代です。
⑦「金石」という鏡を破る不思議な神石が命によって奥州から美濃に
運ばれたと記されています。この「金石」が一夜にして山となり、
そこへ命と王子達がお隠れになりました。(伊奈波神社由緒)
(考察)つまり奥州から「金石」という貴重なものを美濃の地へ
運んできて、その量は一夜にして山となるぐらいの量だった。
そこにいた五十瓊敷入彦命と息子は殺された。
誰に?当然「八坂入彦命」でしょう。でも首謀者は違うと
思っています。
「金石」は「鉄」なのか「金」なのか分かりませんが、
「鏡を破る」ということから、それ程強度を持っていた、
つまり、鉄だと思っています。
つまり、まとめると
五十瓊敷入彦命は父親である垂仁天皇から、武力を引き継いだ。
武力によって各地を平定し、平定した土地の財産を得ていき、
土地ばかりでなく、製鉄技術や集団も吸収していった。
もちろんその多くは父親である垂仁天皇にも献上していたでしょう。
当時有力豪族だった物部氏の意向もあり、武器庫としていた
石上神宮に剣1千口を納める程の力と財力を有していたが、
結局は物部十千根に(つまり物部氏に)乗っ取られてしまうが、
代わりに多くの地と多くの民を得ることになります。
父(垂仁天皇)」の意向もあって、かつて国の中心地だった大和周辺と、
父の兄弟である八坂入彦命のいる美濃も自分の財力と武力で発展させた。
垂仁天皇が亡くなった後、弟の景行天皇が即位した。
景行天皇は兄の財力や武力を恐れていたのかもしれないが、
私の推察では臣下である武内宿禰が脅威を感じ、景行天皇に
進言していたと思います。
そこで景行天皇の第6皇女 渟熨斗姫命(ぬのしひめ)を五十瓊敷入彦命に
嫁がせ、市隼雄命をもうけた。第6皇女が兄である五十瓊敷入彦命に
嫁ぐわけなので、かなりの年齢差があったと推察します。
当然政略結婚ですね。
その後、記紀でもあるように、武内宿禰は奥州に視察に行っており、
この地を武力によって取るよう指示した。↓
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景行天皇25年7月3日条、同27年2月12日条
武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。
帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。
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景行天皇は五十瓊敷入彦命を派遣し、五十瓊敷入彦命は奥州を平定し
「金石」を山のように奪取してきたことから、さらに財力は高まった
と考えます。
五十瓊敷入彦命の強大な財力・軍事力を警戒した景行天皇(おそらくは
武内宿禰か物部氏)が、美濃にいる八坂入彦命と共謀して五十瓊敷入彦命を
殺したのだと推察します。
以前、五十瓊敷入彦命は美濃の地を発展させ、父の兄弟の八坂入彦命にも
面会しているはずなので、心を許していたのでしょう。
殺害方法は武力では絶対にかなわないので、「暗殺」か「毒殺」でしょう。
殺した後に、同行していた「陸奥守豊益」に全ての責任を押し付けた、
と考えることができます。
(当然、陸奥守豊益もこの後殺されたのでしょう)
八坂入彦命は五十瓊敷入彦命から見て叔父にあたりますが、
同様に、五十瓊敷入彦命と景行天皇は兄弟ですから、景行天皇から
みても、八坂入彦命は叔父になるわけです。
しかも、八坂入彦命の娘は「景行天皇の妃」になっているので、
つながりは相当深いものだったのでしょう。
多くの財産と土地、武力や製鉄技術・集団を有していた
五十瓊敷入彦命はこうして謀反の疑いを掛けられ殺されたのです。
そして同行していた子供の市隼雄命も同時に殺された。
渟熨斗姫命は景行天皇の子供なので殺されずに済んだのでしょう。
しかし、都を追われ、景行天皇の叔父であり、景行天皇の妻の父である
八坂入彦命のもとで、その財産は美濃国発展のため「搾取され続けた」
と推察します。