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『週刊中年ジャンプ #大切なことは少年ジャンプが教えてくれた』本編【ジャンププラス原作大賞/読切部門】

深夜、バンコク。

観光客相手に花を売ってるちびっ子にかめはめ波を教えて遊んでたら、リーダー格の少年に怒られてしまった。

ごめんね。オレ、くそみたいな現実なんて見たくないんだ。

うつ病 逆恨み

うつ病を患っていた友人に刺されかけた。
休職中に傷病手当金を受給したら周りに陰口を言われると思い込んで消費者金融に手を出していた。復職したのだが消費者金融からそいつの勤務先に連絡がいった。会社は消費者金融に手を出したからうつ病になったのだと罰を与えた。
繰り返し罰を与えるうちに完全に壊れてしまった。
ナイフを持ち出してたので、止めに入ったらオレが刺されかけた。
今でもあいつを追い詰めたモノはおかしいと思っている。
しかし、当時は相当気が滅入ってしまった。

北へ。

逃げるように東京を出て北海道に移り住んだ。
いつでも逃げ出せるようにゲストハウスを選択した。
そこは20か国以上の人間が住んでいる多国籍なゲストハウスであった。
人間不信に陥っていて数ヶ月は誰とも話さなかった。部屋に篭るのはシャクだったのでなにがなんでもリビングに居続けた。
1日中誰とも話さずにリビングに居て飯作って食って寝る。その繰り返し。
意地と人間不信のミックス。それが当時のオレだった。
一日中リビングに居るわ、訳の分からない凝った料理作るわと変な野郎だったので、お腹を空かせた海賊どもの関心の的だった。
無理やり住民に踏み込まれていくうちに人間不信は徐々に氷解していった。
いまとなって思えば、クソガキの頃の体験が役に立ったかもしれない。

にゃあにゃあ鳴くのはウミネコだ

青森県八戸市で漁師の家系のおんじ(青森の方言。長男以外の男子)として生まれた。
ロクでもない事業者のせいでちゃんとした事業者が肩身の狭い思いをしている外国人技能研修生制度。この制度が始まって間もない頃、八戸市でも実習生を受け入れていた。

うちに実習生として来ていたベトナム人と年齢が近いこともあってよく遊んだし、他の船に乗っていたベトナム人達もうちを溜まり場にしていた。
テトの一時帰国の際に見送りに行ったら、オレまでベトナム人に間違われて帰国させられそうになった。

オレ日本語下手くそで濃ゆい顔立ちだから外国人に間違われることがよくあった。
10ヶ国語話せるフランス人に日本語を教えていたら台湾人にしみけん日本語下手なのに日本語教えているとからかわれた。オレもそう思う。

運命の日

大規模なゲストハウスは珍しかったようでよく取材を受けていた。その日は中継があり撮影後打ち上げをしていた。
ふとケータイに目をやると実家からの着信があった。

父の訃報だった。
交通事故だった。
訃報を聞きすぐさま実家に戻ったが、母は虚ろな様子で視点が定まらず、祖母に至っては呆けてしまって自分の旦那も息子も孫もわからない酷い有り様だった。
兄は親父を迎えに行く時間が10秒でも15秒でも違えば親父は死ななかった。自分が殺したのだと兄自身を責めた。
あんたのせいじゃない。

2011年3月11日14時46分

その地震はいつもより長く揺れていた。
地震が頻繁に起こる土地であったし縦揺れでは無いので安心していた。
悪い意味で正常化バイアスが働いていた。どんなに悪くてもはるか沖地震程度だろうと想像していた。
一応、避難しようと外を確認してみた。
動物たちの生きている音もせず、ドブ川をひっくり返したような強烈な海の匂いが鼻腔をついた。
奇妙な静寂の中でガンガンと頭を叩く大津波警報のサイレンの音はガキの頃に観た戦争映画の空襲の場面を思い浮かばせていた。
直感的にヤバいと感じたため、父の遺骨を持って高台へと避難した。
漁師町のためか火葬を行ってから本葬を行う地域であったこと、3月11日が友引であったことに多少なりとも救われた。
前代未聞の震災と言えど父の亡骸を置いて避難なんてごめんだ。
高台にある避難所に避難した際に、祖父の代から面倒見てくれている爺様の家の安否を確認しに行った。
その爺様の家から海を一望できるようになっている。
爺様は双眼鏡を片目にあて「船頭はなぜ沖に逃がさない!馬鹿野郎!」と叫んでいた。
休漁期のため船を沖に退避できる船頭さんたちは丘に上がっていた。
揺れの後すぐに船を動かすことは不可能だった。
港や橋の欄干、トンネルは押し寄せられていた船舶で破壊されていた。

爺様はおにぎりを握ってくれて、避難所の毛布だけでは足りないだろうと毛布も貸してくれた。
数年経ってその爺様は亡くなった。大往生だった。
父の遺骨を抱え一晩明かした。
葬儀なんて当然中止だと思っていたし、葬儀なんて生きている人間のためにするものでこの状況下で行う必要性を感じなかった。
それでも住職のご好意で開いてくださって、連絡もしてなかったにも関わらず父の友人や知人達が葬儀に来てくれた。自分達の家や職場が津波の被害あって明日どうなるか分からない状況に関わらず。
喪服に長靴とそれはもう酷い格好だったけれど。

あの少年ジャンプ

印刷工場が被災しため週刊少年ジャンプも臨時休刊となった。
仙台市青葉区の書店に、山形まで買出しに行った男性客から3月21日に少年ジャンプ16号が寄付された。この16号は最新刊を読むことが出来ない多数の少年達によって回し読みされた。

加害者との対面

葬儀の数日後、加害者と対面することになった。
正直なところ自分と同い歳ぐらいの人間と加害者と被害者遺族の立場で顔をあわせるのはキツかった。知りたくもないけど彼の両親も似たような歳なのだろう。歳が離れていたほうがまだマシだった。
兄には会わせられない。
兄は3月11日に陸前高田市にて仕事の予定だった、もし父が死んでいなかったら兄が死んでいたかもしれない。
それでも兄は自分自身を責めた。
加害者に葬儀の時にこなかったことを問うと、父親から津波で道路が滅茶苦茶で信号も止まっていて危ないので行くなと止められたからだと話していた。
今に思えば感情に身を任せて殴っておけばよかった。
憎むに憎みきれず、家族が壊れていくなか平静を保とうとした結果がいまのオレだ。
あの時は誰もが傷ついていたし、これはオレが一生付き合っていかないといけないオレの咎だ。

光の刺す方へ

父方の祖父は55歳で亡くなり父が家業を引き継いだ。
爺様から船のイロハを教わり最盛期には船は2隻となった。
沖に流された子供をうちの船が助けたことがあって、ガキの頃のひそかな自慢だった。
しかしながら水産業は先細りで父は早めの引退という形で廃業を選択した。
父の事故のニュースが地元の新聞に掲載されたのだが、元船主ではなく無職と書かれていた。仕事を引退した人間は誰だってそうなるけど悔しかった。
父の生きた証を刻みたかった。
ゲストハウスに住んでいたニックは狸小路の呑み仲間100人近くから義援金を集めてくれて、ゲーム好きで来日していたヤンはボランティアとしてすぐに仙台入りしていた。
震災後すぐに来日したディジーとは今でも一番の友だちだ。
自分たちの生活があるにも関わらず東北を日本を支援してくださった国と父のために来てくれたヒトと重ねているんだわ。
ぶっ飛んだ論理だとはわかっているのだけど。
直接会ってお礼をしたい。
オレの空っぽの頭は下げるためにある。オレの手足は這いつくばっても前に進むためにある。

宙ぶらりんの感情に目を背け自分自身を鼓舞させていたのかもしれないが、当時のオレはそれが全てだった。

起業、失敗、そして…

お世話になった国々にお礼を言って回るにはどうしたらいいかと空っぽの頭で考えた。その結果考えついたのが起業だった。
しかし威勢のいいことを言っても実現できなければ意味がない。
自転車操業でなんとか続けていたが、首が回らなくなり住むところさえ失った。
その際に行政に助けられた。
行政からの紹介で路上生活者自立支援センターに入った。
路上生活者自立支援センターという名称であるが、純粋なホームレスではなくネカフェ難民や失職で住居を失ったヒトが入れ替わり入居していた。
一部屋に10人程度が寝泊まりしていた。
足が悪く階段の登り降りがやっとのじいちゃんや秋葉原で偽ロレックスを売って逮捕、収監されていたという両津勘吉みたいなおっさんと同室だった。
このおっさんはどうしようもなかったけど周りからは好かれていた。オレも割と好きだった。
初めの1〜2ヶ月は転落したもの同士和気藹々としていた。
ある日、おっさんが周りの金を持って逃げてしまった。
しょうがないおっさんでチンケな詐欺師と分かっていてもみんな騙されてしまった。
オレ含めて周りの連中が日用品費からお金を貸していたみたいで、足の悪いじいちゃんに至っては出たばかりの年金を丸々貸していたようだった。

閉塞感のせいか徐々に雰囲気も悪くなった。
そんな折に役所の警備員の誘いがあった。
行政に助けられた事もあり役所の警備員を始めた。

健康で文化的な必要最低限の生活

役所では暴れる連中を対応することも多く、チンピラやホームレスに殴られたり首を絞められたり酒を頭から浴びせられることも日常茶飯事であった。

オレ、陰キャだけどホームレスだろうとなんだろうと仲良くなってしまう。
「ちまちま借金返してないで、お前もこっち来いよ」と言われる始末。マダオめ。御免こうむる。

誰彼構わず口汚く罵るPSYCHO-PASSの小畑千夜みたいな女がいてよく問題を起こしていた。
その日も坊主頭の大柄な男を罵った。最初は大柄な男、山のフドウも我慢していたのだが何度も罵しられてキレて殴りかかった。
すぐさまオレと職員で間に入って止めようとしたがエレベーター内まで押し込まれた。
「やめましょうよ。こんなことしても損するだけですよ」
職員が説得しようとしても「オレはもう終わってんだよ」と言って聞きやしない。
成人男性2人を押し込むなんてどんな馬鹿力なんだよ。
さすが南斗五車星がひとり。山のフドウである。
更に職員一人を応援に呼んで3人がかりで止めに入った。
「 酷い罵りをしているのを見ている。あんたが怒るのも無理ないし、オレが同じ立場だったらオレだって怒る。だけど手を出したら庇いきれない。それは不本意だから止めてくれ。」と無茶苦茶な説得をしてしまった。なんだよ、オレの気分が悪いから止めてくれって。

祖母の死

山のフドウとの一件のあと、入院中の母方の祖母が亡くなったとの訃報が入った。
入院中に見舞いに行ったときも、亡骸を目の前にしても、父が死んだときもそうだったがかける言葉を見つけられなかった。
好きでもない人間には声をかけて手を差し伸べようとするが、実の祖母には声もかけられない。
バカみたいにヒトを助けては、ヒトを助けるような立派な人間じゃないと自己嫌悪に陥っていた。
カラダが動く方へと行動していたが震災のお礼をすると言いながら出来てない負い目からの代償行動じゃないのか。
「わりいことばせたらわがね(悪い事はしたらダメだ)」が祖母の口癖だった。
どん底でも犯罪に手を染めずに踏みとどまれていたのは祖母の言葉があったからかもしれない。

這いつくばって前に進む

いままでみたいに退路を断ち、怖いモノ知らずで動く事はなくなった。
チンピラだろうとなんだろうと向かっていけるのに起業に対しては腰が重くなってしまう。それでも足掻き続けた。
思いだけでは人は動かないし腹は減る。

つまずくのは恥ずかしい事じゃない!立ち上がらない事が恥ずかしいんだぞ! by 両津勘吉

こちら葛飾区亀有公園前派出所 136巻「熱球の友情」より

うるせぇ。金返せ。

コロナ禍。そして…

ホームレスに殴られたので現行犯逮捕した。
いつもは被害届を出さないのだけど、このホームレスが女性職員に粘着していたため被害届を出した。
公判後、空を見上げるとブルーインパルスが飛んでいて笑ってしまった。
どんなタイミングだよ。

くそみたいな世界でなにも成し遂げていないのに自分語りはくそ野郎の戯言だけど、口を閉ざしていては今までの足掻きが無駄になってしまう気がして。
なにひとつ上手くいかないし運命なんてコントロールできない。
だけど陰キャで粘着質なので、ありがとうもくそ野郎も返していく。
諦めたらそこで試合終了。諦めの悪さも少年ジャンプで学んだことだ。

少年ジャンプの主人公のようなヒーローにはなれないけど、少年ジャンプで学んだことでおっさんは生きていく。

創作大賞2023に応募してみた。後書き

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