悪をも受け入れられる世の中にしたい
子どもを虐待する
親の言うことが気に食わないからといって、親を殴る
ムシャクシャしてるからといって、火をつける、刃物を振り回す、硫酸をばら撒く…殺せるなら誰でもよかった…
アメリカならば、学校に押し入って銃を乱射する…なんてことも…
とんでもない人たちが世の中にはいます。
いやいや、程度の差こそあれ、
気に入らないと怒鳴り散らすパワハラ上司
誹謗中傷を繰り返すSNSあらし
常にマウントをとってくる友人
すぐ揚げ足をとる同僚
とにかく腹が立つ
とボヤキまくり、誰かのことを責め立ててしまう私たち…
それだけでストレスが溜まるし、そういう人を見るだけでもストレスです。
以前にも書きましたし、講演でも喋ったことがあるんですが、「人の存在価値」ってなんだろう?
僕が尊敬する衛藤信之先生の著書にこんな一節がありました。
影がないと光の明るさはわかりません。
冬がなければ春の暖かさはわかりません。
・・・
悪がなければ善が成り立たないという点で、善と悪にも等しく意味があるのです。
二つは、片方がないと片方は存在できないという、お互いが補い合う関係にあるのです。
ですから、正しいものや明るいものばかり目にしていても、それは世の中の半分しか見たことになりません。善も悪も幸せも不幸も、入り混じるように存在しているのが人の生きる道です。
その実装のすべてを人間に見せ、学ばせるために、この世界は善だけでなく、サタンにそそのかされるユダという悪も想像したのではないでしょうか。
だから人は間違わないように学びはじめます。
この話が僕の中で、かなり響きました。
つまりこういうことです。
人はどんなことにも与えられた役割があるんです。
もしかしたら、悪役という役を引き受けてしまった人は、この世の人によりよく生きようとする道を教えてくれているのだと考えることができるわけです。
だとすれば、気の毒にななぁ…
できれば正義の役をしたかっただろうに、イヤな役を引き受けてくれたんだね。
そう考えると、その人に対する怒りが緩和されるじゃん…って。
私たちの一生は、なんらかの役割を背負って生きているんです。
自分の役割を全うして、人は死んでいくんです。
その役割の中には、悪も含まれているんだと。
とすれば、すべての人間は責められる存在なんていなくて、みんな認められるべき存在なんだって。
僕は、こういう考え方が好きだなぁって思うんです。
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