『人生に生きる価値はない』を読んで【基礎教養部】

今回、私が選んだ本は『人生に生きる価値はない』です。

これを読んだきっかけは、生徒指導をするときに人生に意味はありますかとかいうことを馬鹿が聞いてきたからだ。

本を読みながら思ったことなどを載せていこうと思う。

「女性は産む機械」発言

これは柳沢大臣の「失言」から始まる話題であった。個人的に、生物の機能としてはその側面があることは確かであるため、言った内容よりも誰が言ったのかが問題だと感じた。本では、この発言が柳沢氏の発言が本心か否かは、じつはどうでもいいとある。本心であろうとそれを外に出さない限り問題は何もなかったからだ。問題なのはやはり、政治家として、大臣として口に出した軽率さだけだ。このような本心は現代社会では容認されないのだから、信用できないとなるのが当然だとある。

哲学と心の病

ひきこもりの話が出てきた。ひきこもりの青年の多くは、「普通」と戦っている。世間は「普通」を要求するが、それができないため、敗北者であることを認めざる負えなくなっている。このような人にとって、唯一の救いは、世間の価値観に従って評価されることだと書いてある。なにか世間において誰もが承認する仕方で評価されれば、それだけでひきこもりから脱することができる。だから、その過程にいるとしてくれる環境を望む。

理性は人間を健康にするのではなく、病気にする張本人なのではないか

これは、最近自分自身も思っていることだ。教師として教えることを仕事としてはじめるようになってから、当然だが教えるという機会がものすごく増えた。論理的思考やルールを教えていく、つまり、理性でやっているということだ。僕の勤務先は、底辺と言っていいほどのレベルであるため、当然、理性ではなく本能寄りの人間が多くいる。教員として接する場合、生きていくのがしんどいだろうなという場面にものすごく直面する。しかし、別の視点に立った途端、その見方ができなくなる。思ったことをすぐやる。言われたことをただただそのまま直せばそれでいい。このような行動をする姿を見ているといいなーとなるときがある。普通に考えれば(つまり人間的に)、非常にまずいとなるだろう。人間的に生きるとなったとき、何かしなければならないことが発生するはずだ。そのようなときに思ったことをすぐやってしまうといった計画性のなさは、様々な問題を引き起こす。言われたことをただただそのまま直せばそれでいいも同じだろう。何回か注意されたら、あきれられてしまうだろう。しかし、動物として考えるとそれでいいじゃないかとなる。
人間は動物であるので、それを押さえつける理性は人間を病気にさせると言っても言い過ぎではないだろうと思った。

知的エリート主義

編集者と二人で銀座のクラブに行った話が書いてあった。中島先生でもそのようなことをするのかと正直ものすごく驚いた。普通の人という意味の善人から、知的ではない人、知的向上心のない人がとても苦手であるという文脈での話だった。クラブの女の子が話すにつれて我慢の限界が迫ってくる描写が非常に面白かった。我慢の限界値をはるかに超えていると普通に書いているからだ。最終的には、どんなに綺麗でも教養のない人間と話したくはないと言い、「ケガレ」を振るい落とすために、大衆酒場で飲みなおすといったようにすごい内容だった。

本物の教養人とは、教養があることを全く誇っておらず、幾分恥じていることすらある。彼らにとって、教養を積み重ねることは自然的欲望であるから、そのこと自体が面白く、見返りを求めない。そのため、教養を誇る人、教養のない人が嫌いとなり、自分のような人間だけを許すことができる。 

ラカン

「こちらから」一方的に理解することによって同一化を図ってはならないこと、それは傲慢以外のなにものでもないこと、

むしろ他者の絶対的隔絶を尊重すること、すべてを「向こうから」見直すことが大切である。

これは非常に教員という仕事をしていると感じる。確かに自分の視点以外から見ることはできない。どこまで行っても相手を見ながら自分の中から似たようなところを探しているだけに過ぎないとよく感じる。しかし、その子のためと言い理解しようとする。そして勝手に期待し勝手に期待を裏切られている。非常に傲慢だなと感じる。


違うことというのは当然でありそれでしかないから、わざわざいうものではないのだ。すべてを向こうから見直すことは実際にはできないが試みることは意義あることであるため是非していきたい。


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