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ワークショップ第05回『オリエンテーション』 【教育学部】[20210531-0606]

みなさんこんばんは。今年からJ LABで教育学部の部長をさせていただいていております、シトと申します。

この記事はコミュニティー内で行われたワークショップ(WS)の記録を、コミュニティーに参加していない方々に向けて伝えるためのものです。

第5回は教育学部のワークショップでした。教育学部について説明します。この部活は教育について軽いところから重いところまで扱っていく予定です。教育がどう変わってきたのかやこれからの教育はどうなるべきかなどといった話を皆でしたいと思います。教育学部の英語専攻なので英語教育についても話し合ってみたいと思っています。

今回のテーマ

今回は最初のWSということもあり、皆さんに今まで受けてきた教育を振り返ってもらいました。

ボクが投げかける質問を発表します!
Q1、みなさんが受けてきた敎育で印象深かったものはなんですか?良いものについて教えて下さい。
Q2、悪いものについて教えて下さい。
複数でも1つだけでも構いません。質問以外に〜について話してみたいといったものでも構いません。よろしくお願いします。

下記にやり取りの抜粋を載せます。

WSのログの抜粋

Hiroto 
悪い方がぱっと思いついたので(というか今でもコンスタントに思い出さざるを得ない呪いなので)、悪い方だけとりあえず投下します笑。良い方は思いつき次第投下します。ほぼ個人的な愚痴です。
悪い教育:小学校の完食教育
私の小学校では、完食教育がなされていました。先生によって程度の差はありましたが、「食べきれていない人はその後の昼休みと掃除の時間も食べ続ける」ことに対しては、どの先生も積極的に推進していたような気がします。
給食におけるコッペパンやチーズ物が好きではなかった僕は、友達に食べてもらったり、最初に減らしてもらったりしながらなんとか生き延びていました。
しかし、他のものは食べ終わっているのにパンを見つめて経過する15分間とか、児童会に所属していたのにその顧問が「昼休みに食いきれ派閥」だったためほぼ参加できなかった話とか、わざとベロを喉奥に突っ込んでゲロ吐く技を会得した日々とか、掃除中に机を前後されながら1人で泣きながら食ってた日々とか、今思えば二度と思い出したくないレベルできついです。それも、そのときは何の疑問も抱いていなかったというのが何とも、、。小学校特有のヤバさを感じます。
「そんなにキツイなら思い出さなければいいじゃーん」と思われるかもしれません。
不可能です。先述したように「呪い」なのです。
私は中学高校と上がり、給食制度から解放されてそこそこ幸せな日々を送っていました。
しかし、合宿や修学旅行など、「大勢の人(知り合い)のいる場で食べる」とき、毎回確実に体調を崩し、食べ切るのに苦労していました。
高二になり、好きな人とデートで食事をする際、緊張などを完璧に越したような食欲不振と味覚異常が現れ、「何かおかしい」と思い調べたところ、症状が完璧に「会食恐怖症」とよばれるものでした。そして会食恐怖症になる典型例を見てみると、、、「小学校での完食教育」が挙げられているのでした。
知らないうちにトラウマを植え付けられていたわけですね。社会的な是非はどうでもいいですが、個人的には限度を考えてほしい教育法だと思っています。
悪い教育:授業中の飲料禁止
基本的にメリットとデメリットを比べた時に、メリットを上回るデメリットがない。
今のご時世はウイルス対策として水分が推奨されている感があり、許可されている学校もあるようですが、小学校から高校まで飲料の禁止にずっと疑問を感じていました。
食べるのがダメなので飲むのもダメ?食べるのがダメなのは臭いや咀嚼音が集中力を削ぐからだが、一瞬で終えられる飲むという行為にそれを当てはめるのは違うのでは?
といった感じで、全く納得いきません。大学の自由さを見てほしい、、。
小学校や中学校は義務教育だから管理しないといけない?何でもかんでも管理すればいいってのは思考停止なのではないでしょうか。
シト(上への返信)
完食敎育ですね。私の小学校(中学もですね…)も「食べきれていない人はその後の昼休みと掃除の時間も食べ続ける」ことに対しては、どの先生も積極的に推進していたような気がします。私の場合、焼き魚がトラウマだった(小さい時、こんなうまいもの丸呑みしたらもっとうまいに決まってる!という考えで丸呑みして死にかけた)ので、そのようなものが出る日は地獄でした。
 「そのときは何の疑問も抱いていなかったというのが何とも、、。小学校特有のヤバさを感じます」の箇所についてですが、これを見て道徳教育を思い出しました。『教学聖旨』という、1879年8月に明治天皇より参議伊藤博文・同寺島宗則に出された教育方針の中の小学条目二件には、幼少期のうちに道徳を教え込めということが書かれています。道徳というものを身に着けさせるには、その幼少の初めにその脳髄に感覚として植え付けなければならないとあります。小学校の話をするたびに、やはり小学生時代に受ける敎育は重要だなと感じます。
 管理はどこまですべきなんでしょうね。管理教育で思い出されるのは、70年代以降の校内暴力や非行が社会問題になり、学校が校則を盾に厳しく行うようになったというものですね。あとは、ヘルバルトの教育的教授ですね。管理と訓練がうまくいってこそ、知識を授ける教授ができるというものです。さらっとした敎育史で触れただけなので、こういうのを部活内で読むのも面白そうですね。
Yujin Yonehara
小中高と色々思い出してみましたが、あの教育良かったな〜と思うものあまりありませんでした。強いて言うなら、小4の時の担任が、クラスで起きた問題についてディスカッション形式で生徒を役割分担・議論をさせて、皆んなに意見を述べさせることをよくしていました。当時は面倒で嫌っていましたが、今になって、やっぱり真剣に取り組んでおけば考えを共有する訓練になったんじゃないかと思ってます。
ちなみにその担任の先生は、自転車で下り坂を爆走中に車のフロントガラスに突っ込んで大怪我したのち、入院して休職すると言うアホみたいなことをしていました。おかげさまであまり他の思い出がありません。
悪い思い出はあります。Hirotoさんと内容は殆ど一緒ですが、給食についてです。「お残し厳禁・食べ終わるまで帰らせない」が当たり前だったので、大嫌いな牛乳を飲めずに渋ってたらいつまでも居残りさせられました。酷い時は給食の後、掃除の時間になっても延々とチビチビ牛乳を飲み、ホームルームが終わって皆んなが帰って真っ暗になった教室で飲んでた時もあります。
鼻つまんで飲めと思うかもしれませんが、僕は飲み込む力が弱く(嚥下障害?)、嫌いな食べ物や薬(錠剤・粉薬問わず)が全く飲み込めません。オエってなっちゃいます。そういうわけで、あまりにも飲むのが遅いので、担任から愚痴を言われたこともあります。幸いにもトラウマにはなっていないですが、当時給食の時間に流れていたSMAPの曲は大嫌いになりました笑
乳製品全般がダメなので、コッペパンとチーズの組み合わせの日なんかは最悪でした。味付けなしじゃ食べられないデカさのコッペパンに嫌いなチーズを付けても無論食べられるわけないです。そんな経験があるので、中学では牛乳以外の物を食べる速さがめちゃくちゃ上がりました。
給食はもちろん栄養バランス等を考えて作られているので全部食べれるなら食べるべきだと思います。廃棄の問題もあるでしょうし、食べ残しは無い方が良いでしょう。でも嫌いな物を無理に食べさせるのはどうなんでしょうか。摂食障害にもなりかねないですし、「全部食わせる教育」は悪い教育だと思います。
シト(上への送信)
ディスカッション形式でみんなと話し合うのは良いですね。私は一切そういうのがなかったので羨ましいなと思います(といっても今の視点からですが。小学時の私なら当時のYoneharaさんと同じこと思ってますね)。小学生でも嫌がらずに積極的に参加させられるようにするにはどうすれば良いのでしょうね。難しいところだなと思いました。
バックれ
逆に僕は良かったことがすぐ思い浮かんだので投稿します。
中学生の頃、女子に人気の男友達をいじりすぎて女の子たちはもちろん男友達からも干されかけてた時に、「新しい友達できたか?」とそれとなく事情を察して気にかけてくれていた先生のことが思い浮かびました。
現実的な解決をその先生がやってくれたわけではありませんが、中坊心になんとなく自分を気にかけてくれていることが嬉しかったですし、むしろ実際の問題解決は生徒にやらせるべきであることを考えるとその先生の「気にかける」行為は、少なくとも僕にとってはベストなサポートでした。
教育の上で大事なことは「子供・生徒に正面から向き合うこと、本気で子供の相手をすること」だと思います。あれをやれこれをやれとコントロールしようとするのではなく、学び自体は子供に任せて、必要な時に向き合うだけでも子供や生徒は喜ぶのではないでしょうか。ハァ〜嫁と子供ホシェ〜〜
シト(上への送信)
教授が言ってたのですが、先生は常に生徒を見れるようにするために協力して動いてるらしいです(担任が見れないような状況になっても他の先生が見ている)。なのでそういうことに気づくのかなと思いました。講義中はそうなんだー程度の理解でしたが、バックレさんの体験を読んでわかりやすくなりました。ありがとうございます。
 子供がどうなのかという視点の重要さは何度も学びます。例えば、教育方法論とかでですね。その敎育を受ける子どもたちを無視して、どう教えようかということばかりしていると、法則化しようという流れになってしまいます。そのものは悪くないんですけどね…。
 嫁と子供かあ…。できるんだろうか…。
ほうむたろう
中学校の国語教育。
悪いほうです。担任でもあった女性ベテラン国語教師は私にとって最悪であり、最高の反面教師です。
国文学出身の元文学少女がそのまま教師になってしまったようなタイプで、言語学的な視点や論理学の要素がほぼなく、情操教育よろしく本文を「味わう」授業を展開してくれました。情緒に訴えかけるような語り口なので感化されやすい女子は先生に同調していました。特に三年次は反戦ものを取り扱うことが多く、時には涙して語りかけてくるありさま。物語の感想を求められたときなどは、教師が想定している「良い子」が言いそうなことは私には全く分からず、分かりそうな生徒と教師とのやり取りで授業が進みました。
私は全く理解できず、国語が嫌いになる一方。
高校でコンピュータ言語をかじり、予備校で自然言語をつかった論理をなんとなく教わり、私が国語において理解できなかった理由がわかり始めると受験国語は何とか形になり受験突破。
今、中学生に国語、高校生に現代文・小論文を指導する機会を得ていますが、あの時の担任のような教え方にはならないように心がけています。
朝10分間全校生徒で校庭を走るという謎の時間。
10分で2.5㎞くらいを毎日走り、おかげで部活の走り込みがなかったので良かったのですが、運動嫌い勢は何を思っていたのでしょうか。
給食について
完食教育は当時もありました。給食を準備してくれている人のミスで焦げ焦げで誰も食えないものを無理やり食わされた記憶があります。
また、都内でも給食の味が良いと評判の公立から、田舎の公立に引っ越しで移動したときは悲劇でした。
田舎で初めてソフト麺なるものを食べたとき、正直まずかったのですが、周りの子は喜んで食べているのを見て食育って重要なんだなと思いました。ほかにも軒並み味付けの悪いものが毎日のように出るので給食が嫌いになりました。
シト (上への返信)
国語の先生は私にとっても最悪でした。文部科学省の国語教育についてみると結構しっかり書かれています。しかし、実際の敎育はちゃんと行われているかというと経験上はそうでないと思います。例えば、論理的思考力ですね。私は読解が得意でなんでわからないの?という感じでしたが、SFCの小論文を解いたときボロボロでした。論理的思考力があれば、設問に合わせて聞かれていることにしっかりと答えられるはずです。しかし、それが出来ていませんでした。予備校の小論文の解答例などを見ても設問に答えないで知識で戦ってるなあというのが多いです。国語教育がしっかりなされてない結果なんですかね? 
 中学にそういう先生がいるのはそうだろうなという印象です。先生になりたい理由は小学校と中高で大きく分かれます。小学校は学級担任になることもあって、先生になりたいという理由でなる人が多いです。一方、中高は教科担任になるので、例えば、歴史とつながっていたいから先生になる人が多いです。それは良いとして、教師になるのなら、最低限押さえてほしいことはありますね…。
マッキー 6月1日
久しぶりに学生時代を思い返しています。
めちゃ長くなってしまいましたがそのままたれ流します。懐古厨の戯れと思ってご容赦下さい
■高校の体罰教育(多分駄目な方)
福岡の公立でしたが、当時かなり体罰教育が常態化していました。宿題を忘れたり、授業中寝ていたりするとビンタや拳骨をされるのは当たり前で、授業中当てられた問題に答えられない場合も容赦なく平手や拳が飛んできました。また体罰以外にも、当てられた問題に答えられない場合は、座れずにずっと授業中ポツンと立たされる屈辱系?等、ペナルティのバリエーションはそこそこ豊富にありました。1学年に2人~3人くらいはそうしたドS系教師がいたので、勉強のできない生徒にはあまり休まることのない日々でした。不思議と不登校の生徒がほぼゼロだったのは地域柄かもしれません。
では、こうした体罰や精神的圧力を伴う教育がダメ生徒に功を奏していたかというと、僕は微妙かなあと思います。
怒られたくない&殴られたくないの範疇に留まる生徒に対しては一種の抑止力であったとは思いますが、僕みたいに途中から吹っ切れて(笑)、何発でも来いやという精神状態のダメ生徒には何の効果もなかったでしょう。特に僕が所属したラグビー部では、先生のビンタを平気な顔をして受けるヤツかっこいいみたいなちょっとヤバい価値観が浸透していました。まあまともな精神状態では耐えられなかったので、ビンタ食らいまくっても平気な顔して部活行く俺かっこいいという陶酔状態に入っていたんだと思います。
■予備校の一コマ(良い方かな)
当然のように浪人し、初めの数か月は予備校に通っていました。北九州予備校というこれまた昭和然とした予備校(努力は実る!)だったのですが、ある数学の授業の一コマが印象的でした。
事前に整数問題を出題され、当日希望者が挙手しホワイトボードに回答を書くということになり、僕は必死に解答を考え当日挙手、解答を書きました。残念ながら誤答でした。正解は7行~8行程度に収まるエレガントな解法で示されており、一方で僕の回答は群数列を無理やり何重の入れ子で使用した極めて複雑且つ醜い解法でした。
ところが先生は正攻法をサラッと解説した後はたっぷり時間をかけて僕の群数列を使用した解法のどこが誤りだったのか?どうすれば解答できたのか?という点の検討に時間を割いてくれました。多分、色々な観点で非効率な授業内容だったと思いますし、何より恥ずかしかった記憶があります。でもその体験は”自分の信じたアプローチ方法をとことん突き詰める”という思考姿勢を持つきっかけとなりました。今振り返ると、割と大事な一コマだったかもなあと感慨深いです。(まあすぐに通わなくなったんですが・・)
シト(上への返信)
体罰エグいですね…。私は体罰は必要だと思っています(なかったら多分何かやらかしてたと思うので)が、どこまでがいいのか考えると難しいですね。問題がある生徒よりもその周りの生徒のほうが実は問題であったり、学校文化が問題だったりと本当は何が問題なのかということがあるので難しいなと思いました。
 その予備校の一コマに似た授業をしていた有名な先生がいます(おそらくそれを参考にしたのでは?とボクは思いました)。その先生の名前は、斎藤喜博です。戦後敎育のスターです。彼の授業のやり方の一つに〇〇ちゃん式間違いというものがあります。まちがっている人に注目し、みんなでどこで間違えてしまったのか考えます。なぜこのようなことをするかという理由は2つあります。1つ目は、同じように間違えている人がいる可能性があるというものです。2つ目は、わかっている人も説明しろと言われると非常に難しいためためになるというものです。学校でこのような授業展開をするのはわかるのですが、予備校でそれをするのはすごいことだと思いました。
GZ
【良かった点】
・中学のとき、野球未経験で野球部顧問になった先生が、一生懸命部活動に参加してくださったこと。経験者とは違う良さを感じました。
・体育の先生の生徒のいじり方、褒め方、叱り方。笑いになるいじり方、やる気をなくさせない褒め方、不平等感を与えない叱り方ができる人の割合が高かった気がします。
【悪かった点】
・体育座り。座りにくい。
・椅子に座り続ける授業。両肘をついてしまうと必ず寝る。
シト(上への返信)
部活動に関して、体育教師は乗り気です(部活をするために先生になる人が多い)が、他の教師、特に、自分がやったことがないものを担当するとなると嫌だという教師は多いです。しかし、それでも一生懸命やってくれる先生はすごいなと思います。
 部活動に対する一般的になことに対して言います。「部活動については、教育課程の外の学校教育活動としての位置付けを維持しつつ、少子化の進展や教員の負担軽減の観点を考慮して、将来にわたって持続可能な在り方を検討することが求められる。学校教育活動の一環として、関係教科等と関連付ける視点、休養日や適切な活動時間の 設定などバランスのとれた生活や成長への配慮を行うとともに、一定規模の地域単位で運営を支える体制を構築することが不可欠である。」と中央教育審議会答申では書かれています。教員の負担軽減とありますが、断ったらひどい扱いを受けることになるといった問題が生じているのが現状です。一旦制度として作ってしまったら変えるのが難しいというのを痛感します。あと、部活動をなくして地域のクラブのようなところでやらせればいいじゃないという意見がよくありますが、体の構造などを学んでいる体育教師のほうがちゃんとした教育ができるなどという面があるのでそう簡単にはいかないようです。個人的には、ならもうちょっと柔軟にすればいいじゃないとは思うんですが…。
西住
Q1、みなさんが受けてきた敎育で印象深かったものはなんですか?良いものについて教えて下さい。
字が汚すぎるという理由で定期テストの英作文が0点だったこと。おかげでテストは読める字で書くようになりました。
Q2、悪いものについて教えて下さい
あんまり思いつかないんですが、関心があるのは過剰教育(オーバーエデュケーション)ですね。
シト(上への送信)
字ですね。私は字が綺麗だったのですが書くのが非常に遅かったので、それで怒られていました。それで嫌になって字が汚くなりましたw
 大卒が多い理由を2つあげます(私が思いつくもので)。1つ目は、大学が多いというものです。歴史から見ていくと1950年代に経済専門などといった学校を日本が大学に変えました。例えば、青山学院大学などですね。あそこはもともと経済専門です。そして、1960年代に経済成長で大学が増えました。このように大学が増えていきました。新たに作るより、専門を大学にしてしまうのは結構頭がいいやり方だなと思います。戦後世界から見て無理だろうと思われていたことを実現したのですから。2つ目は大卒が免罪符になったからです。中世における免罪符と同じように、学歴は現在の免罪符になりました。大卒の資格の持つものが、その後の人生を保証され、人格的にも正しいものとなりました。
蜆一朗
良かった教育 : 小学生のころからずっと学校教育はおかしいと思いながら生きてきたので, 基本的に学校教育にいい部分はないと思っています (過激派). ただ, 子どもながら生意気にも「きちんと子供の将来を考えて指導しているんだな」「不器用かもしれないけど毎日改善していっているんだな」ということを肌で感じられる先生は数人いました. そういう先生は軒並み生徒たちからは不人気で, すぐに教育委員会にいってしまいました‥(T^T)
悪かった教育 : Twitter でよく話題になる超算数 (かけ算の順序・はじきなど) もそうですが, 理不尽というか合理的でないというか, そんな指導が大半だったように思います. いじめが起きたり窓ガラスが割れたりタバコで火災報知機が鳴ったり, 不良をグーで殴る先生がいたり, そんな様子が見られた時代の最後を中学生として過ごしました. 理科の実験・技術家庭科の実習は「安全が保証できない」という理由で 1 回もやったことがありません. そういうことがあるのは仕方ないのかもしれませんが, 不良にこびへつらってまともに指導できない先生に限って授業もひどいものでした. 中学の部活は顧問 3 人による権力争いに巻き込まれ, 最後の大会も世紀の悪采配 (僕が先発して 6 回まで 1 対 0 で勝っていたのに 7 回に交代させられて, 2 番手のキャプテンが 4 者連続フォアボール + サヨナラ暴投をかまして逆転サヨナラ負け) の末 1 回戦で負けたので, 本当に無駄な時間を過ごしたと後悔しています. 安全と自由は学力で買わないといけないんだと悟り勉強に目覚められたので, ある意味良かったともいえるかもしれません.
シト(上への送信)
小学校の頃から変だと思えるのはすごいですねw私はめちゃくちゃ反抗していましたが全体として敎育はおかしいから反抗していたわけではなかったです。話は変わりますが、教育学の中で、校則について教師に反抗するのは、至極まともなことだとされています。
ていりふびに
自分の学生時代を振り返ってみましたが、教育というが自分の考えに影響しているので客観的に良かった悪かったと判断するのは難しかったです。一応自分なりに印象に残っていたことを書いてみます。
Q1良かった点
(1)自分は中学三年間はシンガポールの日本人学校で過ごしました。そこでは家庭科、音楽、図工、体育の半分は、日本人以外の先生から英語で教わり、日本の学校ではおそらく取り扱わないような内容を教わりました。なんとなくですが、このことは自分にとってポジティブに働いている気がします。
Q2悪かった点
(1)小学二年生の時は先生の方針で給食を食べるときは一言もしゃべらないのがルールでした。特にその時に嫌だった覚えもないですが、今考えると理不尽で意味のないルールだったと思います。
(2)小学生5年生の数学の授業で先生に「学校で習ってないことを使うな!」と厳しめに怒られている生徒がいたのが印象に残っています。このような指導が勉強、学習とは学校で習ったことを覚えるだけと考える人を作っているのだと思います。
シト(上への送信)
私はベトナムと日本のハーフなので、ベトナムの日本人学校に入ってみてもよかったなと思いました。様々な視点から教育を受けられるのは良いなと思います(学校ではないですが、ベトナムと日本を行き来して、ベトナムで少し勉強したりした経験は結構影響しているので)。
 教師の役割の授業管理と支援の中に、観察者、ラポールビルダーというものがあります。観察者とは学習者個人、ペアー、グループにおける学習の進捗状況の確認と、適切な支援を提供する人のことです。ラポールビルダーとは、学習者との、そして学習者間のより良い関係性を促進する人のことです。これから考えて、悪い点で挙げられてる先生は問題ですね。
マッキー
アウトプットの習慣として朝一で書いてみます。

 子どもたちがより良い人生を歩むうえで、IQや学力等の「認知能力」よりも、好奇心や粘り強さ、レジリエンス等の「非認知能力」の方が大事なんじゃないか、って風潮ありますよね。僕もこれには同意見です。特に幼少期の内にどれだけ発射台の仰角を上げられるかがその後の人生の難易度を大きく決めてしまうような気がします。良い大学に行って高収入を得ることだけが人生ではないと思いますが、「非認知能力」が欠如すると継続的な人間関係の構築が難しくなったり、抑うつ傾向が強くなったりするらしいので、その点は確実に人生の幸福度を下げてしまうんじゃないかなと思います。
 では、子どもの非認知能力はどうやって育むのか?現状少なくとも日本では、親の裕福度が子の非認知能力(≒将来の可能性)を代理しているのが現状かと思います。ネグレクト、虐待と貧困の関係は言うに及ばず、子との会話やその他積極的なコミュニケーションの頻度についても単純な所得と相関してしまっているんじゃないでしょうか。(妄想)
 パブリックでこれを補うには小中の公教育にいかに「非認知能力」に係るカリキュラムを充実させるかが大事であると思いますが、これも現状、積極的に取り組んでいる学校は富裕層が多く通う進学校、特に高校受験が不要な中高一貫校等がメインでしょう。それに教師の熟練の問題もあると思います。
・・・とつらつらと考えているのですが、@シト さんはこの教育における「非認知能力」の問題についてはどう考えられますか?もしくは大学で関連の講義を受けた中で印象的な内容があれば共有頂けると嬉しいです!
シト(上への送信)
フランスの教育社会学者ブルデューは、 無意識レベルにまで身体化された文化が行為や価値判断に及ぼす傾向性のことをハビトゥスと呼びました。 家庭は、このハビトゥスが培われる重要な場の一つです。例えば、普段の言葉遣いや感受性は、学校において習得される以前のものです。 親が高学歴で高収入など、上層階級の子どもたちは、 家庭において予め論理的な言葉遣いに馴染んでいます。家庭の本棚には多くの書物があり、そのため読書経験も豊富です。そして休日には家族で美術館・博物館に出かけるなど、 身近なところに芸術・文化に触れる機会があります。 高い階層の両親のもとでは、 学校で習うような教養と通じた経験を生活の中に自然と組み入れやすいです。一方、 低い階層の子どもたちは、そういったものがなく学校文化とは異なるハビトゥスを予め身につけてしまった上で学校へやってきます。 そのため、 後者の家庭に育った子どもは、 学校がどこか不自然な空間として感じやすいです。仮に学校で同じ教育が提供されたとしても、 家庭において培われたハビトゥスが学校での学習成果に差を生んでしまいます。 こうした上層の階級が’慣れ親しんでいる高尚な文化は、 経済資本と同様の働きをすると考えられ、それぞれの家庭が蓄えた文化的な能力や文化財は文化資本と呼ばれます。 文化資本は社会的地位の維持、 上昇とかかわっています。 学校教育制度は、 文化資本を持つものを高い地位にとどまらせて、 あるいは押し上げて持たざる者を締め出すように配置する仕組みになっていると指摘したのが文化再生産論です。これによると、学校教育が子供に教える知識は、完全に中立でもなければ、客観的な基準から選ばれたものでもないです。上層階級の利に資するような基準から選別された知識であり、自由や平等といった理念に対して反対するような機能をはたしているそうです。このような視点から、 学校教育に関して家族が子どもに与える影響は、家で親が宿題の面倒を見るかどうか、 塾に通わせるかどうかといったこと以上に、 生活自体の中に含まれた大きいものだと思います。
Takuma Kogawa
・よかった教育
→学校教育であれば、小学5-6年生のときの担任の先生の指導方針が、家庭学習をきちんと始めるきっかけになったという意味で自分にとってはよかったです。どんな内容でもいいから家で何か勉強して、それをノートに書いて毎日提出するのが決まりでした。漢字の書き取り、計算練習でもいいし、リコーダーの練習でもOKでした。それまで家で勉強する習慣はありませんでしたが、ここから少しずつ勉強するようになったと思います。地方在住で中学受験も考えておらず、勉強の目標はなかったのですが、この頃からの日々の積み重ねは決して無視できなかったと思います。余談ですが、家庭学習の内容や授業での発表を点数化されて、班ごとに競っていました。班で10回一位をとると担任の先生がハンバーガーをごちそうしてくれました。
学校教育以外なら、いろいろなところに連れて行ってくれた親には感謝しています。キャンプや車中泊をしながら外のいろいろなものに触れることは、今からやろうとするとかなりエネルギーのいることです。極寒のなか分厚い氷の張った湖の上でワカサギ釣りをしたのもいい思い出です。アウトドアが好きになったわけではありませんが、学力以外の人間の土台の形成には役立ったと思います。
小中あわせて3年間は外部のジャズスクールに通っていたのですが、そこは「音楽をツールとしてみんなと仲良くするのが目標」とする団体でした。スクールからプロに進んだ人は何人もいますが、音楽のうまいヘタを意識することなく共通の趣味のある人と長く一緒にいたのはよかったと思っています。スクール生どうしはいまだに交流しています。
・悪かった教育
→転校により様々な地方の学校に通っていましたが、給食の完食教育を経験したことはありません。完食とか以前に、食缶に入っていたご飯やおかずの量が多すぎるとは思いましたが…。確か、別のクラスで食缶に市販の消毒薬を入れるいたずらがあって、それについてはきっちりと指導されていたのは印象に残っています。
本題ですが、高校一年生のときの担任の先生は少し自分には合いませんでした。今も昔も友人が多い方ではなく、休み時間に誰かと一緒にいることは少なかったのですが、それを担任の信念と合わずに問題だと思ったのか親との面談でもその点を指摘されたり、学校に外部のカウンセラーとのカウンセリングを勧められたりしました。何の問題もないのに、それを問題にされてしまったことはショックでした。結局カウンセリングは受けて、カウンセラーという職業があまりいいものではないと思ったため心理学系の進路をやめることにしたことはある意味プラスではありました。高校二年生、三年生の担任はそういう自分でも受け入れてくれたので個人的には安心していました。
学校教育以外では、小学生のときに通っていた空手教室では水を飲むことを禁止されていました。どういう目的があったのかは不明ですが、ほとんど意味がないと思われることを強制するのは悪い教育にあたると考えます。
シト(上への送信)
私ならそれでも家で勉強ははじめないと思うので、すごいなと思いました。毎日学習するで思い出したことを書きますね。テストの点数ではなく、テストを受けるという行為そのものを評価の対象にした結果、成績が大きく伸びたというものがあります。人間は、結果を直接コントロールすることが出来ません。できるのは、行動をコントロールすることです。望ましい行動をすればその分結果が伴う可能性は高くなるというものですね。コントロールできることはなんなのか考え、それに注力することが成功の鍵なのかもしれません。
 私も先生と合わず、お前は狂っていると言われカウンセリングを受けさせられました。彼らは聞き上手なので通常なら色々喋ってしまうんでしょうが、学校が雇ってるカウンセラーというのもあり信用していなかったです。
 空手で水飲み禁止ですか…。私も空手をやっていたのでわかるのですが、きつくないですかそれは?練習に集中するにも水は飲まないときついです。ここで他の方に書いている部活動と外部の話が思い出されます。
野澤
1972年生まれですがよろしいでしょうか?生活面が主となります。
小学校で記憶に残っているのは給食です。どなたかの記事にもありましたが、完食教育です。鯨がよく出ていまして、苦手な同級生は泣きながら食べさせられていました。当時私は鯨が好きでしたので、友達のを食べ助けていました。逆に今は食べれなくなりました。
中学では、教師や先輩からの理不尽な暴力です。荒れた学校ではありません。1学年7、80人程度の素朴な生徒ばかりいる田舎の学校です。いまだに理由がわからないのですが授業中に竹刀で叩かれ、廊下に出されピンタされる、男子はほぼ全員経験していると思われます。部活動でも先輩から同様なことをされてきました。
ただ、このようなことは問題になることはなく、当たり前のこととされていました。私も当然なことと受け入れていましたし、管理され厳しくされる方が素晴らしいと考えていたと思います。我慢することが美徳だったのです。
この15年程、学校歯科医として担当している小学校へ年2回(3年生と5年生)授業をさせていただいています。授業中おしゃべりしている生徒や多動性障害ではないのに教室から出て行く生徒を軽く注意すると、担任からは保護者からクレームがくるのでやめてくれと逆に厳しく注意されてしまいます。
私の授業がつまらなかったからだと積極的に反省し、教える事の難しさを痛感させられる瞬間であります。
シト(上への送信)
クジラですか。私が小学校の時の給食にも出ていました。たしか全部唐揚げになっていましたね。そういえば蒲田駅付近においしいクジラが食べれるお店があるらしいです(私も行くはずだったのですが財布を忘れてサイゼリアから出れないというアホみたいなことをやらかしてしまい行けませんでした…)。
 昔の体罰は先生内で役割分担してたみたいです。この先生は怖い役で、この先生は優しい役でという感じでです。こう見るとなんか可愛いです。ただ、野澤さんの場合はただただやられてただけみたいですね…。なんでそんなことをするのか理解が出来ません。
 今の時代、生徒を怒ることすら許されませんからね…。言ってはいけないことなんでしょうが、変な親が増えましたね。私が高校を卒業するまでに運動会でできる種目がどんどん減っていったのを思い出します。ああいう人は何がしたいんでしょうね。
にしむらもとい
例によって最終日に超長文を投下します。すいません、時間ある時に読んでください笑
僕にとって、自分の幼少期を振り返って良かったと思い返せるような教育(大人との接点)は、何一つありません笑 この機会にと思ってかなりじっくり考えてみましたが、本当に何もありませんでしたありがとうございました。なので、具体例ではなく教育に対する僕の一般的な考えを少しまとめて置いておきますね。
一応僕の個人的な体験談から始めておきます。とにかく普通とは「違う」ということ、大人が「理解できない」ことを認めてもらうことが難しかったため、何を言っても否定され続ける日々が続き(結果すぐに「空気を読む」技術を習得)小学校低学年辺りからありとあらゆる自己主張をやめ、大人に対しては何も発言せず押し黙るクセがついてしまいました。「どうせ何もわかってくれない」という真っ黒な絶望が僕の思春期を最後の最後まで塗りつぶしていた気がします。そもそも「わかってもらおう」と甘えていたことが間違いだったのですが、それが間違いだと指摘してくれる者もおらず、むしろ逆に「わかれ」と言われる始末。中学以降、認知的な意味でとび抜けて平均値の高い日本有数の進学校へと学びの場を変えましたが、「何もわかってもらえない」というのは単純な認知的問題ではないらしく、その部分に関しては何も変わりませんでした。
何にせよ、先生が生徒より認知的(客観的に測定できる)能力が高い保証などどこにもありませんし、先生が上から目線で生徒の能力開発をするという考えは、思春期の僕には到底受け入れられませんでした。教育の現場においては、先生と生徒の「能力差」を教育の原動力にしようとするのではなく、人としての「信頼関係の構築」というもっと素朴で馬鹿みたいなことをこそ重視して欲しかったと思います。極端な話、子供の能力開発なんて基本的な方法論を守っていれば誰でもできると思いますし、究極的にはプログラムさえあれば生身の人間すら要らないと思います。高度に情報化が進んだ時代だからこそ、生身の人間が生身の人間に直に触れて「教育を施す」ということの意味を、いま一度見直して欲しいというのが、いま僕がこんなわけのわからないコミュニティを実験している動機でもあります。
非認知能力(客観的に測定できない能力)というキーワードが上がってましたが、その辺りの扱いも僕はわりと慎重に考えております。非認知能力だけを単離して開発するという考えもとても危険な気がしています。「非認知能力」という胡散臭い言葉の響きに、何にでも名前を付けて全て「理解」の範疇に放り込んでしまおうという人間の悪い習性を感じなくもありません笑 論理は論理で学び、並行して一般化された非認知的訓練をしていれば、それが結果的にうまくつながるというのはどうかなと思います。幼少期に獲得した非認知能力の差がその後の人生の大きな格差を生むというのも単純化しすぎだと思います。「能力」というよくわからないものが、そんなに明確に切り分けられコントロールできるものだとも思えません。たとえば、『マインクラフト』で遊んでたらなんかいろいろ勝手に覚える、みたいなことをいちいちカリキュラム化する必要あるのかなと思ったりもします。放ったらかしにして勝手に遊ばせておけば良い。子供のために何もかも先回りして準備してやるという発想が様々な弊害を生んでいると思います。なので、非認知能力の開発をカリキュラムとしてゴリゴリに固めるのはどうなのかなと否定的に感じてしまいます(そういうの流行ってるみたいですが)。それよりも、先に認知的能力の開発をもっと強く明確にプログラム化し(そこは究極的にはたぶん無人でよい)、結果として非認知的能力の輪郭をはっきりさせるべきなんじゃないかと思います(語り得るもので語り得ないものの輪郭を描くようなイメージでしょうか)。そして、残ったプログラムし得ない余白部分をどう埋めるのかについては、ある程度個人に選択が委ねられ、そこが個性を生むポイントになれば良いのかなと思います。非認知能力を開発するカリキュラムを一方的に与えることを目指すより、まず、環境によってそもそも生き方の選択肢がないことがあり得るというネガティブな状況を改善すべきかと思います。
社会全体として教育を捉えるなら、皆で共有できる一定の方法論が必要なのはわかりますし、幼少期の環境で差がついた「非認知能力」がその後の人生に大きな影響を与えるという理屈からそこをカリキュラム化しようという考えになるのは自然な気はします。ですが、国として十分な準備の上で「一律に」導入できるのならまだしも、そうでないのならやる意味ないと思います。非認知能力開発のカリキュラム作成が不可能と言っているのではなく、ただでさえ危うい現在の日本の学校教育環境において「非認知」などといったふわふわしたものを敢えてカリキュラム化すること自体に意味を感じません。むしろ状況が悪化するような未来しか見えません。そんなことよりも先にやるべきことがあります。認知的能力の開発を徹底して効率化することで、個人の成長過程にもっと余白を与えて欲しい。大層な教育など要らないので、ただ自由に使える余白(選択肢)を増やしてあげてほしい。それが僕の現行の日本の「教育」に対する願いです。
ちなみに、給食の話に皆さんよく食いついておられたみたいですが、僕は、給食に関してはほとんど何も印象は残っておりません。世代の違いでしょうね笑 僕の世代では給食なんてクソ不味くても当たり前でしたし教師に完食しろと言われても皆でテキトーに助け合って、時に教師と喧嘩もしながらどうにかしたものでした。世の中の理不尽に相対する姿勢が全然違うんだろうなと思います。「理不尽なんかあって当たり前」という感覚を持つことは、過剰だと何やっても意味ないという「無気力」につながるので程度問題ではありますが、でも、基本的には僕は健全なことと思います。理不尽に理屈で立ち向かうのは適切ではありません。そして、理不尽を「適切に」処理できないと、結果、大きなトラウマを抱えるという悲劇が起きてしまいます。そういう文脈においては、「だからトラウマを作る出来事自体を避けよう」というトラブル隠匿型の発想がいまの時代の基本的な方針だと思いますが、僕は「そもそも理不尽は在るものだ」と隠匿ではなく許容する素養を持たせることの方が重要だと感じています。その「理不尽の許容」(かなり広い文脈で捉え直せば「身体性の自覚」とか「自然への畏怖」などと言い換えることもできると思います)という素養こそが、僕がパッとイメージできるもっとも重要な「非認知的」能力な気もします笑
おじさんからは以上です。お疲れさまでした笑
シト(上への送信)
教育法で、学校教育の根底をなすものとして、人格形成を図るというものがあると学びました。様々な人と協調するために必要な能力、知識、価値観を育てる。つまり、一人ひとりのアイデンティティの発達に関わることらしいです。根底とか言っておきながらサラッと言われたのがなんとも言えなかったです。結構引っかかってそれ以降講義にあまり集中できてないですね。うんうんとなってる同級生が怖いです。
 教育する者と教育されるものの関係の流れで一方向から双方向というものがあります。一方向の中での僕が知っている流れを書きます。敎育は教師、教科書などといった子ども自身の直接の本能と活動以外を中心にしているとするカント。これのアンチテーゼとして遊びを重視し、遊びと仕事(勉学)との区別をできる限り消し去る事に特別の重要性を与えたデューイ。これらの新テーゼとしてアーレントが出てきます。彼女は、学校の機能は子供に世界がどのようなものかであるかを教えることとし、子供と大人の間に一線を画するのは、大人を教育するのは無理であり、子供を大人のように扱うことも出来ないことを意味する。とはいえ、まるで子供が大人と同じ世界に生活しておらず、子供時代がそれ自体の法則によって自立する段階であるかのように、区別の一線を、大人の共同体から子供を隔離する壁にしてしまってはならない。と言っています。たしか、女王の教室というドラマが有りましたね。あの中の先生は結構子どもたちに理不尽さを味あわせていた気がします。それから、時は流れて1979年。ある実験的教科書が登場します。「にほんご」というものです。その中の「問いかける、答える」で双方向の敎育が取り上げられています。先生も生徒も互いに学ぶことがあるよというものです。このようなものがあるのに、現状は上から能力開発みたいなところがあるので面白いです。
 で、能力開発でプログラムさえあればというところに関してだと、ちょっと違いますが方法論ガチガチの教育技術法則化運動という物があります(前、食堂で見せながら話したものですw)。教師の技術を明確化して誰もができるようにしよう!というものですね。私はこの流れに賛成でこれと生徒重視(非認知能力など)の2つのアプローチをすればいいのにと思ってます。そうすれば後者に時間を十分取れると思うので。ただ、現実はそううまくいかなく、この運動について敎育で問題視されてるのは、技術的になり、子供を無視した形式的なものになるというものです。いやいや、アホかと私は思いますけど…。形式化自体は問題ではなく、それだけで終わらせてしまうのが問題なのでは?と。結局、現場の問題なんですかね…?
 思ったことをバーっと書きましたが、流石にボケてきてるので見返して変なこと書いてたら書き直しておきますw
コバ
ついに生粋のJLABチルドレン、ミスターJラバー、シト君のWSですね。
先週、今週は仕事が立て込んでおり返信遅くなりましたが、参加させていただきます。
Q1、みなさんが受けてきた敎育で印象深かったものはなんですか?良いものについて教えて下さい。
この質問は、部活動の理念と文脈から、学校「教育」ということだと思います。(そんな事当たり前じゃん!と思わせてしまったらすいません。「教育」と聞いて学校のイメージがパッと出てこない私は、少し変わっているんだと思います。)
しかし学校「教育」であまり私は良い印象の出来事が思いつかないので、父とのエピソードを話してみたいと思います。
小学校高学年の頃、大人とほとんど話が噛み合わなかった私は、反抗期に入っていたと記憶しています。
そんなある日、家出をしました。(家出の理由は記憶にありませんが、しょーもない理由だったと思います。その頃ちょくちょくプチ家出みたいなことはしていました。)
当然両親は私を探しに来て、深夜に父に発見されました。
父にめちゃくちゃ怒られると覚悟しましたが、どちらかというと怒られるというよりは男2人で風呂に入りながら、話をされました。どんな話かと言うと、「お前は俺の息子だから、俺が勘当しない限り家出することは許さん」という内容だったと記憶しています。
内容自体は大したことは言ってないはずですが、その時に生まれて初めて大人の魂の言葉を聞いたといいますか、今でも強烈に記憶に残っています。
それっきり、家出というモノは一度もしてないです。
Q2、悪いものについて教えて下さい。
学校「教育」はツッコミどころ満載と言いますか笑、改善点だらけだと思いますが、高校生くらいになってくると嫌いな先生の授業はサボったり、そもそも学校をサボったりするという技を身につけて(よく卒業できたな!)、自分なりに適度な距離感を持って接していたので良くも悪くも学校「教育」に対してはあまり印象は残って無いですね。
シト(上への送信)
確かに、敎育の大きな枠組みの中での学校教育なのでそうですよね。ちょっとそこは考えてなかったです。様々な教育にも触れていこうと思います(今回のWSで、給食について盛り上がったのでまずはそれから手を付けようかなと)。
 高校生の時、私も嫌なもの(やる意味がわからない英語をただただ訳していく授業など。大学に入ってやはりあれはクソであると学問的に学びました)はサボってました。また、学校の前まで行って、気分じゃないなと思った日は引き返して公園で日向ぼっこしたりしてました。

まとめ

今回のワークショップで想定外だったのは、給食について盛り上がったことです。そういうものだと思い込んでいたのもあり、給食という視点が私には全くありませんでした(こういう事があるので、このような場は非常に大切だなと思いました)。非常に勉強になりました。ありがとうございます。

自分が学んでいる学問について多くの人と語り合う機会はあまりないので、頑張っていきたいなと思います。そんな視点があったか!などといった発見を今後もしたいです。

この記事を読んで少しでもJ LABやこの部活に興味を持っていただけたら幸いです。皆さんと対話できることを、非常に楽しみにしています。



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