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高等部三年生のころ、僕はよく一人で港に行った。
テスト最終日の学校の帰り、三ノ宮駅で途中下車し元町までテクテク歩く。それから元町から大通り沿いをテクテク下って行く。徒歩十分程度の距離。海が見たくなるときは大抵心の中に何かしらのわだかまりがあるときだ。その徒歩十分の距離を、わだかまりを一つ一つ思い浮かべながら、ゆっくりと歩く。一向に赤点しかとれない数学、成績の伸び悩んできた社会科。教師の眉間にしわを寄せさせる論文。顧問との折り合いが悪い部活。人間関係。幼すぎて話を合わせづらい中等部。自分よりも出来のいい後輩たち。よそよそしいかつての友人。仲良くないのに親友面するあいつ。そしてそういった問題を生み出す原因である自分の愚かさ。過去の失敗。等々。頭の中を不快な気持ちで満たす。ぐるぐるとめぐる悪意。
 波止場の手前の公園までいくと徐々に悪意の回転は緩やかになる。海風がしょっぱいにおいを運んできて、塩臭さが脳を揺らして洗浄する。ゆっくりゆっくりと船が揺れる波止場を抜けるともう頭の中はからっぽだ。僕は慣性で歩く空の器だ。一度も入ったことのない閉まった酒場をのぞき込む。大人になればここに入ることもあるのだろうか。
 メリケン亭のわきを通り過ぎると震災メモリアルパークに出る。海中からガタガタになったコンクリートパネルと街灯が無造作に突き出している。かつては港だった構造物はゆがんで半分水につかっている。パネルは緑色の海藻でおおわれている。見れば見るほど奇妙な場所だ。日暮れ時のこの場所は、ゆがんだ構造物が赤く染まって奇妙にグロテスクにきれいだ。瓦礫と夕焼けは典型的な終末のイメージだ。ここではお手軽にアポカリプスを体感できる。
 平日午後のメリケンパークにはそんなに人がいない。散歩中の老人やジョギングをする中年、スケボーに興じる大学生とカップル。だいたいこういう人間がちらほらと見える。そこを突っ切って港の端までいく。港の端にはなんだかよくわからない建造物があり、僕はそこに腰かけて海を眺める。からっぽの頭で眺める。ただ眺める。ひたすら眺める。そこにあるのはただの海でそれ以上の意味を付与できないものだ。
 何も考えないことに飽きてきたら、遠くに行くことを考える。誰も自分のことを知らない場所に行き過去そして自分から解放されることを考える。もう会えなくなった人や死んだ友人のことを考える。自分の葬式のことを考える。そのうちに脳髄から海水が引いていき、沈殿していたわだかまりがゆっくりと浮上してくる。そうしたらもう帰り時だ。日の暮れたメリケンパークを横断し、しばし突き出た街灯を眺め、大通り沿いを元町へテクテク上り、三宮にテクテク進んで阪急電車で帰る。
 ……と、いった懐かしい思い出に浸ろうと、先日久々に港まで行くと工事中だった。

これは『宝くじ~』と同じ展覧会に出したエッセイで、コラージュ作品と一緒に出したものです(後でスキャンした作品を探します)
メリケンパークもう改装終わりましたね。


文章など書きます。