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62キロ。

今週は調子がいい。

朝5時に起き、散歩に出かけ、シャワーを浴び、コーヒーを沸かし、読書を1時間。

真夏にはだらけてできなかった規則正しい生活は、唐突と忌々しい過去の記憶が降りてくるという幸運をもたらしてくれる。

新卒で会社に入る機会を逃した私は、個人事業主としてインターネット広告とブログのアフィリエイト収入で食いつないでいた。

学生アルバイト時代に稼いだ微々たる貯金は、出来るだけ触らないでおこうと当時から頑なであった。

新宿三丁目の駅を降りて徒歩5分。
レンタルオフィスを借りた。

月々1万5000円。

受付には明るい髪色のお姉さんと、奥には一丁前にちょび髭を生やしたオーナー。それぞれがまるで愛人のようにくっちゃべっているのがブース越しに聞こえた。

受付の前にはウォーターサーバー。
お金を使いたくなかった私は、1日の食事をその水と菓子パンだけでしのいでいた。

水を貰いに受付に近づくときだけ、順風満帆な若手起業家のような表情を作り、軽く会釈をして受け皿に紙コップを置いた。

目に隈をつけ、襟元がヨレヨレのUNIQLOのTシャツ、ダメージジーンズと言えば格好がつくが、擦りきれて膝上から腿まで乱雑に広がった穴空きのケミカルウォッシュ。

見栄を張ることだけが取り柄だった私の心と身なりは、実際のところみすぼらしかった。

自分の企てでお金を稼ぐことの厳しさを徐々に知り始めた頃、80キロあった体重はみるみる減少していき、ついには62キロになっていた。

帰宅した私を観た妹が開口一番に
「瘦せすぎじゃない?」
と言ってきた。

「そんなことねぇよ」
と返すのが精一杯だった。

確かに行き帰りの電車が急停車するごとに体を支えきれなくなり、吹っ飛びやすくなった感覚があった。

おかしい。
体格の良かった私がそんなことになるのは初めてだった。

ある日、申請書類を提出するための証明写真を撮るのに駅の改札口横に設置されたスピード証明写真機に座り正面を見つめた。

その瞬間、私は驚愕した。
 
ふくよかだった頬がシュッとなり、頭から顎先までがまるで逆三角形をしていた。

まずい。
この生活を続けていたら、いずれ野垂れ死んでしまう。

今思えば、レンタルオフィスの所長は個人事業主と名ばかりの23歳に健康保険証のみでよく貸してくれたなと思う。

「(事業が)大きくなるまで、ご自由にお使いください。」

それまでもそんな若者を大勢見てきては、そう言って場所を提供してきたのだろう。

今となっては健康で文化的な最低限度の生活を送れているが、机の引き出しにしまってある、あの頃の端の1枚だけ切り取られた6枚綴りのスピード写真の自分の顔を観ると、生きることの大変さが蘇ってくる。

世間を目の敵にして瘦せこけたその眼は、こちらを睨んでいた。 

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