20240810-0816
八月十日(土)
生理痛で朝からぐったり。夫は美容院と実家へ。沈むように眠り、鈍いからだを起こして豆腐とねぎの味噌汁をつくりおにぎりを握る。高校野球を見ながら昼ごはん。
夕方、ドラッグストアへ。帰ってトマトを洗いきゅうりを切りピーマンを切る。ピーマンはかつおぶしと醤油で和えいりごまをまぶす。
赤黒い血を何度も何度も見なくてはならない。生きることと死ぬことの混ざり合った生々しさを何度も何度も何度も何度も。
私は清潔なものが好きだ。だからこのからだが嫌いだ。
八月十一日(日)
ほんのわずかに涼しい朝。久しぶりにふわ子の鳴き声が聞こえる。室外機の上で子猫(黒)と寄り添っている。茶色の子は最近とんと見かけない。
労働、買いもの、高校野球。レタスを洗いトマトを切りなすを切る。なすと豚肉を炒める。
八月十二日(月)
私は清らかな人間ではないから、日々天罰がくだっている。
八月十三日(火)
Aの夢。二人で坂をくだる夢。楽しい夢でもしあわせな夢でもないけれど、静かに閉じ込められたガラスの箱の中のような夢。
スーパーへ。きゅうりを切りピーマンを切り、ピーマンはツナと炒め煮にする。ハムを切る。たまごを茹でる。昼はラーメンサラダ。
OSAJIの秋コレ、ニュアンスフェイスカラーの話し言葉。「水面に光が反射するような、濡れたようなツヤとまたたきを帯びたベージュ」という説明文の通りのうつくしさ。水面、濡れたような、またたき。言葉に心臓を撫でられて、鳥肌が立つ。
高校野球を見て、コーヒーを飲みどら焼きを食べ、また高校野球を見る。かぼちゃサラダをつくり、なすと豚肉を炒める。豆腐とねぎの味噌汁をつくる。
代替品のない世界へ行きたい。もちろん、まぶたを閉じればそこへ行くことはできるのだけれど、まぶたを閉じなければ、行くことができない。
もう秋服が着たい。
八月十四日(水)
労働、買いもの、疲労。レタスを洗いトマトを洗い、Rさんにもらった梨を剥く。
足がだるく、眠たい。うつらうつら、うすあめ色の錯覚を見る。
八月十五日(木)
労働、疲労、睡魔。
「離れてゆく心など此処には無いと言って」という歌詞がある。それを今日彼は呟いた。十四年前の曲。
私は心とか魂をあまり信じていない。だって、そういうものがあるのだとしたら、あまりにも残酷だから。でもこの歌詞の、というより彼の書く歌詞の、苦しさとやさしさはわかる気がする。離れてゆくこと、失うこと、怒りやかなしみや苦しみと、それを見つめる静かな目。彼はやさしすぎる。
私はずっとここに居続けるのだと思う。膝を抱えて、まぶたを閉じて。
八月十六日(金)
爪にOSAJIの蜜を塗る。
無印良品で買いもの。郵便局に寄って帰宅。トマトを切りきゅうりを切りハムを切る。かぼちゃサラダをつくる。たまごを茹でる。昼ごはんはごまだれのそうめん。夫の実家からもらってきたそうめんは太くてもっちりとしていてごまだれによく合う。
夕方、ソファーでうつらうつら。
記憶はえんじ色を、そして錯覚はうすあめ色をしている。まぶたを閉じると、そういう色がとろりとろりと溶けているのが見える。それはなめらかで心地よく、けれど心臓に触れるととても痛い。
それでも私はまぶたを閉じる。私にとって書くということはそういうこと。まぶたを閉じて、膝を抱えて、そこに居続けるということ。みずうみのほとりで、水のつめたさや、水面に映る月や、夜露や、沈んでいくものたちを見つめて描き続けるということ。
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