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第4章 形而上学はそもそも可能なのか

形而上学は、現状においては存在していない。いっけん存在しているように見えるけれども、それは概念をたんに分析して最初からわかっていることを詳しくしただけの分析的判断か、確実な根拠もないのにそうに違いないと信じているだけの独我論かのどっちかである。独我論は人の数だけあるため、「人間の理性は、普遍的認識には永遠に到達できない」という懐疑論が流行したりもする。
しかしながら、普遍的理性にたどり着きたいというのは人間理性のそれこそ普遍的な願いであるので、それを扱う形而上学をまるっとあきらめるのはさすがにもったいない。というわけで、形而上学は存在し得るのかについて考察する。

既存の形而上学は現状においては形而上学の名に値しないので、既存の「形而上学?」を分析の対象にしても始まらない。純粋理性批判では純粋理性そのものだけから体系を組み上げるという難事業に取りくんだ。しかしながらそれではついていけないという人も多いだろうから、すでに存在するものをスタートとする。
すでに存在するものとは、純粋数学と純粋自然科学である。これらは、誰がどう考えても、その人の経験と関係なく正しい(ア・プリオリに、経験と関係ない理性=純粋理性により正しいとわかる)学問であり、かつ、綜合的判断である。綜合的判断というのは、われわれの認識をさらに広げたり深めたりしているという意味であり、ただたんに既存の概念を分析してわかっていることを詳しくする分析的判断と対置される。

数学と自然科学は実在する。よって、ア・プリオリな綜合的判断は存在するし、可能である。どのようにして可能なのか、その原則や源泉がわかれば、同様にア・プリオリな綜合的判断を含むはずの、哲学においてもその原則通りア・プリオリな綜合的判断が可能である(=形而上学が成立する)ことも証明できるものと考えられる。


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