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ASD的行動がいっけん真逆であってもやっぱりASD的である件について。

わたしと同じくASDであるHOTAS+さんと先日スペースをやりまして、印象的だったことがいくつかあります。そのうちのひとつの話です。大きくとらえれば、「世界をいかように認識するか」という問いについて。ベースが共通であっても、生育環境によって現れかたは変わるのだと、よくわかりました。

まず、わたし。
わたしは言語発達がものすごく速かったのです。そして、長子であり両祖父母にとって初孫であったことから、誰もこの発達の速さに疑問を抱きませんでした。早期教育とかお受験とかにはつながらなかったんですよね。だって当然だから。
父親は、この事態を面白がりました。自分と同じような理屈っぽさを持つ人間がもうひとり登場した、しかもそれが、自分の娘なわけです。娘と遊ぶ格好の手段が、言語的な遊びになったのも無理はないように思います。その「遊び」は、ひとつはことわざ辞典を暗記して披露する方向に進みました。そしてもう一つ、「それはなぜ、どうして?」を論理的に破綻させずに説明する、という方向に進んだのです。
たとえば、「コロナワクチンを、高齢者から実施します」という内容をテレビで見かけたとします。「高齢者から実施というのは、なぜだと思う?」という問いが発生するわけです。「高齢者は身体が弱くて、コロナにかかって死んだら困るから?」「それを言うならこどもも身体が弱いけど?」「こどもについてはまだ安全性がわからないって言ってた」「高齢者については安全性がわかってるの?」「実験した、と思う」「じゃあ、こどもについても実験すればいいの?」「でも、親が反対しそう……」「まあ、あずさが実験台になると言いだしたら絶対反対するね」みたいな感じです。毎晩テレビニュースを観てはこんな調子で会話してました。教育しようという気はなかったんだと思います。中学受験に反対されましたし。たんに面白がってたんでしょう。
その結果、わたしが確信したのは、「世界は、わたしにとって説明可能である」でした。科学も好きでいろいろ読んでいましたから、科学についてはいまは無理でもいずれいろんなことが解明されるはず。人間の決めたことについても、どういうわけでその決定がなされたのか論理的に考えれば、合理的な理由が見つかるはず。
……科学は裏切りませんでした。問題は人間です。この「世界は、わたしにとって説明可能である」は、自分からみて非合理的な行動、自分には理解不可能な行動原理に直面すると破綻します。そして実際、何度も破綻して、そのたびに混乱したのでした。

HOTAS+さんは違う経験をしたそうです。
彼のお母様は洋裁のプロで、プロ用の洋裁道具が家には数多く置いてあったといいます。ASDの常として、プロ用の機能美はとてもとても魅力的に感じてしまう。しかも金属製のものが多いからきらきらしている。よって触る。ケガをする。仕事用具に触った上にケガをするものだから、当然怒られる。その怒りは当然であり、その指示には当然従うべきです。たとえ理由が明示されなくとも、正しいと判断して間違いありません。HOTAS+さんは視覚優位なので、ごちゃごちゃした説明が性に合わなかったのも、この事態に拍車をかけたように思います。
このことから導かれるのは、「上の人が言うことには筋の通った理由があり、問答無用で従うのが正しい」です。そして実際彼は、応援団に属して楽しく過ごすことができたわけです。
あずさ 「応援団なんて理不尽なところによくいられましたね」
HOTAS+さん「命令系統が明確で過ごしやすかったですよ」
……このやり方も、いずれどこかで問題に突き当たります。その一つは、自分が指導する立場となったときでしょう。相手が問答無用で指示に従ってくれればいい。しかし、相手が指示に従わないとき、「上の人が言うことには筋の通った理由があり、問答無用で従うのが正しい」が崩れてしまうわけです。昇進して部下を持ち束ねることになったとき問題が発生したと彼は言っていました。そういうことかなと。

あずさ 「世界は、わたしにとって説明可能である」
HOTAS+さん 「上の人が言うことには筋の通った理由があり、問答無用で従うのが正しい」
どっちも「それは正しいときもあるけど正しくないときもあるんじゃないかな」ですよね。そして、傍から見ると真逆の行動をとったりするわけです。たとえば上の人の指示が理解できないときに、理由をたずねて怒られるわたしと、理由を聞かずに即座に実行するHOTAS+さん、みたいに、傍から見ると真逆の行動をとったりする、みたいに。でもどっちも、自分の考えるルールで「世界とはこういうもの」をかっちり定義していてそれが適用できないと混乱するという意味で、ASD的であるとわたしは思います。

傍から見ると真逆で、行動原理を問うても真逆に聞こえたとしても、もう一段さかのぼるとどっちもASD的っていうのも面白いなと思ったのでした。そして、ここからわかることは、あるエピソードがASD的かどうかは、けっこうきちんと分析する価値があろうということでもあります。違いが大きいので、彼と対話していくのは興味深いですし、ASDとは何かを考える上でも役立ちそうなので、ぜひまた開催したいと思っています。


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