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1週間前のこと

緊急事態宣言が出された4月7日(火)、午前9時6分に3298グラムの女の子が生まれた。

 予定日は4月1日で、どこに行っても「少し遅く生まれるといいね」なんて言われて僕も嫁も上手く対応し切れずに笑って誤魔化していた。小さい頃は成長に大きく差が出ると言われたけれど、実際のところそんなに気にする必要もないんじゃないかなって思っていたし、無事に生まれてくれるなら日にちなんていつでも良かった。
 嫁はボーダーラインよりも血糖値が高く、お医者さんからは妊娠糖尿病と言われていて、1日に3回、食後に血糖値を測り記入して、定期的に病院に通わなければいけなかった。妊娠後期はほぼ正常値になって計測する回数も減ったけれど、心配症な嫁はいつも不安を抱えて過ごしていたと思う。悪阻もひどく食べれない物があったり、食べれても戻してしまったり、大好きなお寿司も満足に食べれないしお酒も飲めない。
 お腹が大きくなるにつれて、世間はコロナ一色に染まって行ったことも大きな不安になっていたろうなと思う。検診は付き添い禁止になり、陣痛室は立ち入り不可、分娩室には入れるけれど、場合によっては立ち合いは出来ない。
妊娠で出来ないこと、コロナで出来ないことを書き連ねていくと自分が想像も絶するくらい彼女は不自由に囲まれて生活をしていたのだなと感じる。耐えられたのがまず凄い。心がつよい。今更になって、もっとサポートしてあげるベきだったと後悔している。

 緊張感が高まるなか、予定日から3、4日経っても出てくる気配がない。
どれが陣痛なのか分からないと良く言っていた。初めてなんだからそれはそうだろう。
 Instagramで自分よりも予定日が遅かった子が出産したということを知って泣いていた。予定日から2週間は正期産だし、焦っても仕方ないと宥め、内心では泣くほどのものだろうか(自身が楽観的な性格だから)と思っていたけれど、多く人から「生まれた?」とLINEが多数きてる上に他人が何なく終えているのを見てしまったら、息が詰まってしまうのも当たり前だ。当事者からしたら僕が言った「焦っても仕方ない」なんて綺麗事にしかならなかった。もっと寄り添った言葉をかけてあげるべきだったなと思う
 そんなやり取りがあった夜のこと。夜行性のハムスターも寝静まった3時30分頃、お腹を壊したような痛みが続くと声を掛けてきた。
ものすごく汗をかいていて、これは普通じゃないなと直感した。何もしてあげることが出来ずオロオロしていたら時計は4時を差していた。4時20分にまた陣痛がきて、4時28分に再び陣痛。痛みの間隔は次第に短くなっていく。遠くの方から始発電車の音がした。
 4時39分、嫁が病院に電話をかけて今から向かう趣旨を伝える。全然開かない目に無理やりコンタクトレンズを入れて、車の準備をした。期間限定でマスオさん状態で暮らさせてもらっている嫁の家の、嫁のお母さんよりも早く起きたのはこれが初めてだった。
2人で「いよいよだね」と話したけれど、お互いに緊張感あって、上手く笑えなくて乾いた声と言葉が口元から床に落ちる。嫁は車に乗るのでさえしんどそうだった。準備をし始めた時には藍色だった空はうっすらと桃色になっていて幕開きを予期させる。

 5時00分、夜間用のインターフォンを押して嫁が病院に入る。コロナ対策のため、呼ばれるまでは車で待機。4月とはいえ朝はまだ肌寒い。風はなく、快晴とまではいかなくても晴れていた。自販機で買ったホットコーヒー、鳥のさえずり、駅に向かうサラリーマン。
 5時12分、落ち着かなくて車から出た。駐車場の植え込みに一輪だけポピーが咲いていて近寄ってみたけれど、枯れているようだった。小さいことで一喜一憂する。そういえばお爺ちゃんが亡くなったのも火曜日だったことを思い出した。たまたま同じ曜日だった1/7の偶然、がただの偶然とは思えない。お爺ちゃんの死をまだ半分くらいしか受け止め切れていない。けれど天から見守っててほしいとも願う。
それはあまりにも都合が良すぎるとお爺ちゃんは笑うような気がする。連絡をもらったので分娩室に入る。

痛みに悶える嫁に対して何もしてあげらない。もしかしたらこの人はこのまま…と想像が頭を過ぎるほど辛そうだった。
 苦痛に眉を歪めて4時間、9時6分に3298グラムの女の子が生まれた。生んでくれたという感想の方が近かった。目も耳も鼻もちゃんとある。指だってちゃんと5本ある。お世辞にも可愛いとは言えなかったけれど、愛おしい気持ちになった。
 右手の親指の爪だけやたらと伸びていて、お腹のなかでもちゃんと爪は伸びるだなと不思議な気持ちになった。いつのまにか外は青々と晴れ渡っていて、快晴の日にはこの日のことを思い出すのだろうなと思った。
生まれてきてくれてありがとう。生んでくれてありがとう。

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