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【小説】ミルクを汚す黒い液体

うぇーーーーーーん!!!!!
 空気を痺れさせるような泣き声でクロは目を覚ました。赤ちゃんの泣き声が苦手だということにクロが気がついたのはここ1ヶ月のことだ。聞いているとなぜか不安になる。その声は緊急地震速報を思わせた。
 クロは赤ちゃんの泣き止ませ方を体得している。あーでもないこーでもないと試行錯誤を試し、本を読み、ネットの情報を漁り、頭にインプットした知識が本当に正しいものか調べ、知識をふるいにかける。
嫁であるシロはその姿を見て学者じゃないだからと笑う。学者ではなくともクロは理由や理屈をはっきりさせないと気が済まない性分だった。
 「アカ、ちょっと預かるよ」
シロの腕のなかで狂ったように泣くアカを自分の腕のなかにすっぽりと収める。
生後1ヶ月のアカは3時間に1回ミルクをあげる必要がある。一度にたくさんのミルクを飲むことができないから、分散しないと必要量を飲めないと助産師さんが教えてもらった。
 夜中は0-3時はシロ、3-6時はクロ、6-9時はシロ、9-12時はクロと、アカの面倒を見る時間を分けた。シフト制にすることはお互いのためであった。

 壁にかけた時計は2時32分を指している。
中途半端に眠ったせいで頭痛がする。どれくらい寝たのか計算するとうんざりしてしまいそうだからクロは敢えて睡眠時間を計算しないようにしている。正確にはアプリ上でどれくらい眠っているのか統計はとっているが、見ないでいる。
まだ俺のシフトじゃないのになと心のなかでため息をついた。
 シロはひどく疲れているように見える。
理屈や理論で学んでいくクロとは対照的に、シロは体感で学んでいくタイプだった。経験値をためるが口癖で、勢いとフィーリングで人生を回している。
大学のゼミで初めて会った時はどちらかというと嫌いなタイプだったが、次第に自分になかった発想や行動に惹かれてやがて結婚。1ヶ月ほど前には子どもにも恵まれた。

「ありがとう…」
 シロはペタンと座り込んだ姿勢で正面を見つめる。焦点があっていない。
滝のような勢いで泣いていたアカはクロによってやがて鎮められ眠そうにしていた。
 なんでこんな簡単なことができないのか、クロには甚だ疑問だった。
「もう先に寝てなよ、あとは代わるから」
クロは無表情のままで言う。明日は普段より早く出勤しなければいけなかった。クロは無意識にため息を吐き出した。
「なんで?」
しばらくの間黙っていたシロが口を開いた。「ん?」
「なんで、クロにはできて私にはできないの…」
シロは肩を震わせていた。
「私がお腹を痛めて産んだのに、なんでクロが抱くと泣き止んで私が抱いても泣き止まないの?」
シロの目からぼろぼろと涙が溢れる。ずっと抑えていた感情が一気に決壊するような感じだった。
そんなこと言われても困るとクロは思う。クロにとっては本に書いてあった通りに行動しただけだ。
「それはやり方があってないからだと思うよ、腰のこの部分を叩いてあげてあげるんだ」
ほらこの辺りとアカをシロに見せるようにして教える。
「やり方があるんだよ、シロはそのやり方を知らないだけ。今覚えちゃえば大丈夫だよ」
クロは丁寧にやり方を説明した。観察し、検索し、読みこんで得た知識をお裾分けするような
気持ちでシロに教えた。どんな行動にも必ず理由がある。その理由が分からないなら、分かるようになるまで。

「そんなこと、もうやったよ!それでも泣き止まなかったの!」
シロの体温が上がっているのか、かけている眼鏡が少しずつ曇る。
「本当?どれくらいの時間やったの?」
 クロは食ってかかった。経験上、すぐには泣き止まなくても根気強く続けていれば泣き止むと知っていた。
「ずっとやってたよ!見てなかったのに私がやってないみたいに言わないでよ!」
シロの呼吸が乱れる。
「まるで私が何もやってなかったみたいじゃん…」
 相変わらずアカは腕のなかで口を開けて眠っている。子どもは泣き止んでるのに今度は大人が泣いている光景がおかしかった。アカの夜泣きによる連日の寝不足もあって、この状況を理解するのに苦しんだ。なぜ、アカは泣き止んだのに泣いているのか。クロは泣いている明確な理由が分からなかった。これ以上何をする必要があるだろう。
シロが鼻をすする音だけがする部屋で、クロは言った。
「じゃあ今やってみよう。どうすれば泣き止んで、どうすれば泣くのか。実際に練習してみようよ」
 クロは腕のなかですやすやと眠っていたアカをシロの布団に置いた。
背中に敏感なスイッチを持つアカは、置かれた直後からもぞもぞと動き出し、やがて顔を真っ赤に染めた。新生児、乳児がどうして赤ちゃんと言われているのか分からなかったが、顔を真っ赤にして全力で泣く姿が印象的だからなのだろうとぼんやり思う。
 やがてアカは大きな声で泣き出した。その声の大きさは部屋中の空気を震わせているようだった。シロはクロの言葉には答えず、涙を流したままでアカを見つめる。
 正直、シロが泣いている理由がわからなかった。練習して身につけてしまえば、それが力になるのに。それだけの話ではないか。
「泣いたって何も変わらないよ」
 クロはため息を吐き出した。
深夜3時の空気は鉛のように重い。
「辛い時に泣くことはいけないことなの?私が悪いの?」
「そういう意味で言ってるんじゃないよ」
 クロは頭を掻きむしった。
「今の私にはそうとしか受け取れない」
「練習して覚えちゃえばそんな辛い思いをしなくてすむよっていう意味。それだけの話じゃん。ネガティヴに切り取らないでよ」
 アカの泣く声にかき消されまいと、大声で言ったことが怒りを余計に増幅させる。
「なんでクロが怒ってるの?私何か悪いことした?」
 シロの目からは涙が流れる。
「いやいやシロが泣いても仕方ないんだから、まずアカをあやしなよ」
「泣きたくて泣いてるんじゃないのに…」
 アカの声が一際大きくなった。
シロのことを可哀想だなと思う反面、ここで自分があやしてしまえば今までのやり取りが水の泡になってしまう。もはや引くに引けないところに来ている。
「私ばっかり責められてるみたいでもう嫌!」
「そんなに嫌ならやめたら?」
「そんなに嫌ならベランダから捨てなよ、それが嫌なら今あやす練習をしよう。僕はどっちでもいいよ」
 取り乱すシロに向かって立て続けに言った。
耳に届いた自分の言葉は想像以上に強いものになっていて後悔をした。頭がくらりとするような強い毒を持った言葉にぞっとする。
なのに言ってやったぞという感情が自分のなかに存在していることに気がついた。血が湧くような悪性の快楽に蝕まれる。泣いているわが子を使ってまで、クロは言葉を武器にした殴り合いにのめり込んでいた。
「なんで、」
 呆気に取られたシロは言葉を失った。その空気感が取り返しのつかないことを言ってしまったことを実感させる。血の気が引いたクロは取って付けたように言葉を言い足す。
「普通そんなこと嫌でしょう?だから練習しようって言ってるの」
 シロは泣くのをやめた。泣き止んだというよりもオアシスが日照りで干上がったみたいだった。
結局はやるしかないよねと伝えたかっただけなんだとクロは慌てて付け加えたが、すでに遅い。シロの表情が変わることはなかった。

 クロはふと小学生の頃を思い出した。
掃除をサボったことをいつも温厚な先生に怒られて、今すぐ帰れと強い口調で言われた。先生のことは味方だと思ってた。だからこそ、先生から思いの外強い言葉を浴びせられ思わず泣き出してしまったのだ。サボるつもりなんてなかった。本当は少しかまって欲しいだけだったのだけど。
 今になってあの先生は僕のことが嫌いで言ったわけじゃないんだなと思った。きっと思わず口から溢れ出てしまっただけだ。今の自分のように。
 結局、その先生とはそこから接触に気まずさを感じてあまり関わらなくなった。夏休み明けの始業式の日にはいなかった。大病が見つかり教師を続けることが出来なくなってしまったのだと他の先生が教えてくれた。

 クロが我にかえった時にはアカの泣き声はもうしなかった。

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