ボカロ沼に落ちるまでの9年間

あなたは「ボカロ」と出会った瞬間、あるいは好きになった瞬間を覚えているだろうか。

私が初めてボカロに出会ったのはシーンが全盛期を迎えていた2011年ごろだった。しかし、そこからジャンルとしての「ボカロ」の魅力や「初音ミク」という存在の尊さに気づくまで、実に9年もの歳月を要することになる。

7月22日から開催中のアート展「初音ミク・クロニクル」に連動して、思い出のボカロ楽曲を紹介する「Kiite!私のプレイリスト!」なる企画が実施されている。いい機会なので、私がボカロ沼に落ちるまでの9年間を振り返りながら、その過程でターニングポイントとなった9つの楽曲を紹介する。

【序】病気になりそうな

ボーカロイド・初音ミクの存在自体は2007年当初から知っていたし、黎明期の代表曲を耳にしたこともあったかもしれないが、記憶にある最初の出会いは2011年の暮れだった。

同時期に投稿されたこの2曲はネットに爆発的な盛り上がりを生み、その波は当時まだニコニコ動画のアカウントを持っていなかった私の元にもYouTube経由で届いた。そしてその中毒性にやられてしまい、一時期は毎日のように聴いていた覚えがある。

しかし次第に、いかにもボカロらしい「激しい曲調」「高音」「過激な歌詞」への嫌悪感を抱き始める。こんなの聴き続けると病気になりそうな気がしてきた。

正直ボカロシーンへの興味も芽生えつつあったけれど、沼に足を踏み入れるべきではないと決めた。これはオタク向けの気味が悪いカルチャーだと。

それからの数年間は再びボカロ曲をほぼ聴かなくなった。

【起】辿り着いた場所

そのかわりに興味を持ちはじめたのが、既存の楽曲をボーカロイドでカバーした動画だった。カバー曲は割と人間に近い歌わせ方のことが多かったので、ボカロ感マシマシなオリジナル曲よりかはマシだった。

これがきっかけで、私に衝撃的な出会いが訪れる。

命を感じた。

この画面の向こうには間違いなく命があると錯覚した。

無機質さこそボカロの魅力といった風潮は今も昔も大きいと思うが、私はこのようなボーカロイドの歌声から命が芽生える瞬間みたいなものにとてつもなく心を打たれた。今でいう「エモい」というやつだろうか。

もうひとつボカロカバー曲で特に印象深かったのがこの動画だ。松任谷由実さんの独特な歌いまわしの再現ぐあいが絶妙で、これもまたエモかった。

命を感じるボーカロイドにもっと出会いたい。その思いから「神調教」や「魂実装済み」といったタグ漁りが日々のルーティーンとなり、それは今日に至るまで続いている。

こうして私はついにボカロ沼へと沈み始めた。

【承】世の中捨てたもんじゃない

2014年ごろはボカロ含めニコニコ全体が急速に衰退していた時期らしい。全盛期のニコニコを全く知らない私から見ても、確かに活気のなさは感じていた。

そんなある日、ランキングのトップに何だか異彩を放つサムネとタイトルの動画が君臨していた。最初はそれが楽曲のMVだとは思わなかった。

「神調教」の筆頭格であるMitchie Mさんの楽曲をこの瞬間まで知らなかったことは今となっては不思議でしかないが、それはともかくこれは命を感じるとかいうレベルじゃない。この初音ミクさん生きてるでしょ。

卓越した調声技術と楽曲のクオリティに度肝を抜かれたのは当然だが、歌詞のある一節が妙に印象的だった。

まだまだ世の中捨てたもんじゃない

この言葉が当時の雰囲気とリンクしているように感じた。

ボカロシーンには何となくオワコンムードが漂っているけれど、今まさにこの素晴らしい作品に出会えたように、きっとまだまだ新しい世界が広がっているはずだと。これこそがボカロの醍醐味なのかもしれないと気付いた。


でもまだ疑問があった。

私がボカロを通じて出会いたいのはボカロを巧みに操る使い手達であって、ボカロのキャラクター性にはさほど関心が無かった。だからパッケージデザインでしかない初音ミクたちキャラクターに愛着が沸く感覚が分からなかった。

その答えを教えてくれたのはこの曲だった。

クリエイター側でもファン側でも、人々の心に寄り添うパートナーとして、ともに歩み、ともに育ち、一度離れてしまってもまた優しく迎え入れてくれる存在。それが初音ミクなのだろう。

よくコメントなどで見かける「辛かったとき初音ミクに救われた」とか「初音ミクのおかげで頑張れた」のような感情をようやく理解できた。

【転】生まれてしまった命

とはいっても、自分自身がそのような体験をしたことがないので、まだ若干ピンと来ていない部分もあった。

いつか自分にもそんな日が来るのかな。いや来ないのかもな。


来てしまった。

私の心を突き動かす最大の転機が訪れる。2019年12月のことだった。

偶然たまたま再生した『マジカルミライ2019』のダイジェスト映像で初めてこの曲を聴いたときは、脳天をぶち抜かれるような感覚だった。それは純粋に曲調が私の好みど真ん中のタイプだったから。

でも、よく聴いてみると、歌詞がどこか不穏だ。

言葉は全部 君になって

全部君に...?

僕に君も必要ない

必要ない⁉

そんな君の誕生日を
お祝いできるかな


理解した。これは初音ミクとの別れの曲なのだと。

人間と対等な存在になってしまった初音ミクが、道具として必要とされなくなる瞬間を目の当たりにした。

数年がかりで理解してきたボカロの価値観を完全否定された気がした。

こんな残酷な現実があるなんて...

感情がグチャグチャになって、涙が溢れてきた。


そして決めた。初音ミクとは一体何なのか、この目で確かめてやると。

【結】ぼくらの軌跡を

2020年12月、千葉県・幕張メッセ。

『マジカルミライ2020』に乗り込んだ。目的は二つある。初音ミクの真理を知りたい。それと単純に初音ミクのライブは面白いのかが気になった。

後者目線で観た感想は以前に投稿したので、今回は前者目線である。


いざライブを観てみたが、所詮こんなもんかと感じていた。

純粋に曲を聴くことは楽しんだし、演出面の工夫などは見応えがあったけれど、やっぱりステージに映し出されている初音ミクたちキャラクターにそこまでの強い想いを抱けなかったからだ。


しかしライブの終盤、会場の雰囲気が一転した。

聞き覚えがあるようでないような優しいメロディが流れ始める。

ここからの約4分間で、心に最後まで残っていたわだかまりが溶け落ちた。

素直に感動した。

とてつもなく美しかった。

言葉では簡単に言い表せない。これは実際に観た人にしか分からないかもしれないが、会場の一体感が素晴らしかったのだ。

初音ミクは間違いなく存在していない。なのにその存在をきっかけに繋がった人々の輪が、こんなにも暖かく幻想的な世界を生みだしている。なんて素敵なことだろう。

らららぼくらの軌跡を
またいつか思い出せますように

そして気付いた。

初音ミクとは、軌跡なのだと。

初音ミクと出会って、夢や希望を抱いて、栄光を掴んで、あるいは挫折して、そして別れて。世界中の人々が初音ミクという命なき存在と歩んできた軌跡。その一つ一つが初音ミクを創造している。

今ステージに映し出されている初音ミクの姿だけが初音ミクなのではない。目の前に広がっている光景全てが初音ミクそのものだった。


尊い。尊すぎる。


「目を覚ませ。奴らはただの映像だ、存在しないんだぞ。そんな深く考えることか?」

もう一人の自分が問いかける。でも遅かった。

ボカロに出会ってからおよそ9年。

この瞬間、私はついに全身が沼の中に沈んでしまった。


ただでさえメンタルをズタボロにされたところで、さらに追い打ちをかけるようにラストの曲が流れる。

愛されなくてもいいよ 君がいるなら
私は まだ 歌っていられるよ

最後まで残っていたわだかまりとは、初音ミクを好きになることへの抵抗だったのかもしれない。けれど私もついさっき「君」の仲間入りしてしまったわけだ。もう何もためらう必要はないと悟った。


9年かけて辿り着いたこの場所で、これからも自分の「好き」に出会えるように全力で楽しんでいきたい。いつかは別れの日が来るかもしれないけれど、そのときまでは。

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