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正義のものさし

本日の死刑執行に関して思うところ。

人の命を殺め、殺められた人の人生を奪ったことは
罪に問われて当然だと思う。
亡くなった方たちの命と未来は彼ら加害者側の人間の勝手な想いで
断ってしまうべきものではない。

テレビの取材に応えた被害者側の親族が訴えていたことは

「なぜそういう(犯罪に加担するような)好青年が生まれてしまったのか、もっと原因を掘り下げて欲しい(要約)」

誰もが生まれ持っているはずの命を守るという本能とはかけ離れた行動に至ってしまった経緯、葛藤はどこにあったのか。
それを想うと自己責任とはいい難い何かを感じた。

いや、待てよ。
幼児は「怖いから」「気持ち悪いから」などと平気で虫をふんづけたりする。命があるとわかっていても。

「不快」は自分の命を守るための原始的な本能で、生まれたての赤ん坊は笑うよりも先に泣くことで意思表示をするのはそのためだと何かの書籍で読んだ記憶がある。

だとしたら、「快」の感覚を学ぶことなくそのまま大人になってしまった人たちの成れの果てはオウム真理教信者なのか。

麻原彰晃を否定して完結するのは簡単だけれど、信者が圧倒される彼のカリスマ性は一体どこにあったのか。信者たちが、彼を拠り所にせざるを得なかったのはなぜなんだろう。

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