◎下記のとおり、各章の要点が書かれています。①から㊵までの語句を埋めなさい。
大段第一 一念三千の典拠を明かす
・一念三千を説いた文を踏まえつつ、日蓮大聖人ご自身の「 ① 」が明かされていく
・「 ② 」こそが天台大師の最高・究極の教えであることが明かされている
・一念三千は天台大師が最晩年に講じた「 ③ 」(の第5巻)において初めて明かされた
・ ④ という非情も縁にあえば、仏果を現し、成仏することが明かされている
大段第二(1) 観心を明かす
・観心の本尊の「 ⑤ 」の意義を明かす
・地獄界から仏界の十界それぞれが十界を具えていることを明かした文を挙げ、 ⑥ の文証とされている
・凡夫には自他の生命に ⑦ (とくに四聖)を見たことがなく、とても信じ難い、との疑問
・ ⑧ (声聞・縁覚・菩薩・仏)は、日常生活ではなかなか現れにくく見かけることがない
・ ⑨ の生命にも声聞・縁覚・菩薩の境涯が具わることが示される
・大聖人は、人界に仏界が具わるということを、現実に存在する証拠、「 ➉ 」によって信じるべきであると論じられていく
・末法における一切衆生の成仏の要諦である ⑪ の法門を明かす重要な問答が始まる
・質問者はどうしても、爾前の諸経こそ事実であり実語であると主張し、一念三千の法門は誤った考えや伝承であると論難している
・法華経と爾前経との間に根本的な相違があることについて、経文自体に説かれる内容によって明らかである
・偉大な教主釈尊のような ⑫ の境涯が凡夫の心に具わるとは思えないとの疑問に答える(難信難解)
・偉大な釈尊が ⑬ の劣った心に具わるのかという最大の難問を解決
・この疑問に対する答えとして「 ⑭ 」の法門を明かされている
大段第二(2) 本尊を明かす
・末法の衆生が受持すべき ⑮ について明かされていく。その中で、爾前経・法華経迹門で説かれた ⑯ について論破されている
・法華経 ⑰ の本尊を明かされている
・末法の衆生のための「本門の本尊」が明かされ、本門の肝心たる ⑱ は、ただ ⑲ のみ付属されたことが説かれている
・正法・像法時代にいまだ出現しなかった「 ⑳ 」が末法に出現すると説かれ、その詳細を説いていく
・特に「 ㉑ 」を明かすことを通じて釈尊一代に説かれた諸経のすべては、まとめると一経となる
・迹門は、過去の下種・結縁を調え成熟させるという熟益を目的とする。ゆえにこの三段は、 ㉒ と呼ばれる
・法華経迹門では、十界互具・百界千如が確立。法華経本門では、 ㉓ が明かされ、十界の ㉔ が示された。さらに、真実の ㉕ が示された
・ ㉖ の法ではないものを信受すれば、どんなに機根の優れた人であっても、最悪・最低の境涯になってしまう
・法華経の迹門・本門とも、末法の衆生のために説かれたことが示される。そして、末法に流通すべき法は、 ㉗ の妙法たる題目の五字、すなわち ㉘ であることが明かされている
・法華経の本門が序・正・流通ともに末法の衆生のために説かれたことの文証を挙げつつ、末法における ㉙ の弘教を明らかにされていく
・本門が末法を正意とすることについて ㉚ の一品二半の中から文証を挙げ、本門正宗分が末法のために説かれたことを述べられている
・日蓮大聖人は、特に寿量品の「 ㉛ の譬え」に説かれている「使い」とは誰か、「この好き良薬」とは何かについて論じられ、末法弘通の「人」と「法」を示されている
・法華経本門の流通分から ㉜ の四つの文を挙げられている
・神力品第21の後の 嘱累本第22に ㉝ について言及されている
・地涌の菩薩が正法・像法ではなく ㉞ に出現することが明かされている
・なぜ正法・像法時代に地涌の菩薩が出現しないのかという点について「機」や「㉟」や「教」の観点から述べられていく
・末法の「時」「㊱」「機」「法」について述べられていく
・地涌の菩薩が必ず末法に出現することについての仏の未来記(予言)を挙げられて、 ㊲ がその未来記に当たる存在であることを結論されていく
・前節の末尾で引かれた伝教大師の文にある「 ㊳ 」とは、日蓮大聖人当時の自界叛逆・他国侵ぴつの二難を指すことを明かされる
・最後に ㊴ 出現の先兆が明かされる
大段第三 総結
・本抄全体の結論を示し、末法の凡夫に対する ㊵ の絶大な功力が述べられ、本抄が締めくくられる。