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演劇を届けること、演劇を受け取ること

最初に言っておきますが、私は生まれてこの方、学校や幼稚園の発表会など意外でほとんどお芝居をしたことがありません。ただの憶測で思い込みかもしれない、私の主観も大いに入っています。ひとりごとの範囲に収まるものだと思ってください。

それから、これは「役者」と受け取り手に特化した内容になってしまっています。それは、わたしが舞台を作る人たちすべての知識を持ち得ないからです。応援している役者(今回は少し演出家)の語るあれこれくらいの知識しか私には確信を持って話せるものが無いのです。もっとたくさんの人が舞台に向けて準備していること、それが私の元に届いていることに感謝しています!


さて早速ですが、私が応援している役者は

台本を初めて読んだ時に感じたことを大切にしている。もう一度忘れて読み返したいくらいに

というようなことを言っています。

もしかしたら演劇を人生で一度だけ観る人に届ける芝居を作る。その中でこの一番最初の意識はとても重要ではないか?

大きな足掛かりであると思いました。

白紙の芝居を仕上げるために、まず、何を一番に感じたか、一人の人間としての、一つ、自分の解釈でいいのでものさしを作る。

ここで私が最も信頼する演出家が言っていた例え話を思い出します。

稽古を重ね、一つのコップを一杯にしようと努力する。そうして努力をするうちにいつのまにかコップの水は一杯になる。その時それに満足してはならない。その間にコップが大きくなっているからだ。自分のキャパシティが広がっているのに気付かず成長するのをやめてはいつの間にか空白が生まれ、つまらなくなる。コップからはみ出た部分が面白いのだ。

つまり、役者が台本を初めて読んだときに得た感情、ものさしがまさに

一つ目のコップであるということなのでは?と思いました。

一つ目のコップを一杯にして、自分が本を読んだ時に感じたことをお客さんに届くようなお芝居を作る。

それができたらまた大きいコップが使えるようになっていて、そしたら何度も読み込むうちに感じたものも付け足して、どんどん魅力的に伝わる芝居が増えていく。

そうして何重にも何倍にも膨らんだ凝縮された芝居が私たちの元に届いて、

何も持ち帰れないことなんて無いんじゃないだろうか?と思う。

だって必ず何か提示しているんだから。

私はここでこうしないと思う!というのもあるとは思う。でもその考えを大切にしたらいい。(これも受け売りです)

一度の観劇でもいい。だって向こうは何度も読み込んで稽古して、どこかが誰かに一つでも響く可能性をべらぼーに増幅させてからこちらに届けてくれてるんですもんね。多分、役者一人が台本を初めて読んだときに感じたことの何倍もの情報量になってこちらに届いている。

ハンドメイド作家が、ひとつでも作品が売れるように、何種類も何種類も、同じように大切な作品を作って店に並べるように、

その中からお気に入りが見つかって、何か届くのであれば、演劇が成り立っているな、と私は思うのです。

そして例えば何度も見ることができるのならば、
役者が幾重にも作り上げた芝居を、最初の一撃では見逃していたところもまた魅力的にできている事に気付きに行ける。

向こうが稽古期間で踏んだ過程を、同じように受け取り手も本番期間で踏むような。

だから何度も見たくなるのかな〜

でも一回の観劇で受け取った大きなものがずっと残るのも好き。ほとんどの人がそうであっていいと思うし

受け取り方は自分のコンディションにもよる。日常と重なったり、非日常に衝撃を受けたり、弱っているところに響いたり、向上心を増幅させたり。

役者がその芝居を作った時のコンディションにもよるだろうし。次の年に同じ演目をやってまったく同じ芝居にはならないだろうし。

つまり、稽古期間で作り上げた芝居というのはそれはもう洗練された、大切にパッケージされた作品な訳なのです。作り込まれた、簡単には崩せない、複雑な立体パズルのような。

一度では絶対に拾いきれないような情報量が、稽古した分だけ舞台上にあるはずだから、
届けてくれる作品一回一回の重みをひしひしと感じる。受け取れた2時間とか3時間て、その中で自分が感じた貰えた感情って、すごいものなんだよね!選りすぐりのものが自分に届いているはず。


(今日言いたいことはここまでだよ!この下はちょっと書きすぎたやつです)

届き方も様々で面白い。すごく感情的な部分で受け取れることもあれば、役者のお芝居の技術に驚くこともある。まぁ後者に関しては結果的にそう思うだけで最初は感情的な部分で受け取っている?方が舞台そのものの魅力の邪魔をしないということにはなるがうんんん????(またこれは別の話になるからやめよ!ひと記事書ける)

本来毎日同じものを届けるということを教わってきた、けれど今は変化させることも必要、何度も観て楽しんでくれる人がいるから、と悩む役者の言葉が響いたこともある。

今の時代、見たい役者がいたり見たいシリーズがあって通う人も多い。それが文化を途絶えさせないためにありがたいことであるし、それこそリピーターの多い2.5次元のような世界が舞台を観る足がけとなって、わたしもそれで出会えた大切な趣味だし。

とすると、芝居を変化させたくなる気持ちも分かるし、若いから(若さに囚われずとも)舞台を踏んでいたら考えも変わるし、

そうやって、芝居を変えようというか、本番を踏むうちに「変わった」のなら、変わるんだろうし

それで例えば公演期間の最初の方に観た人と最後の方に観た人で、感じ方が大きく変わることも起こるのかな?とかそんなことを考えました。そもそも見てる人が色々なんだし同じ公演なんてひとつもないんだからいつでも多発してることなんだけど、さ!そういう意味じゃなくてってこと!

そして、わたしも応援する役者がいる身ではありますが、一人の役者にこだわらず色んな舞台を観られるようになれば、受け取れる作品も増えるのにと、一つしかない体と限りある時間に思いを馳せたりもする。(いやこれも話がずれてる。ここらへんの話はこの前Twitterでも外部の記事を読んだりして考えに耽ったばかり。これまた別でひと記事かける問題だから今はそっとしておくね!)



最近考え事が多いのは秋だからかなんなのか、めちゃくちゃいろんなこと考えます。その中の一部を並べました。
書いているうちに違うなと思って直したところもあるし、まぁ考え続けることが大切?かは分からないけれど私は楽しいのだと思います。
明日には真逆のこと考えているのかも笑

何が言いたいんだか?でしたが
届ける人受け取る人で出来上がる演劇の素晴らしさ、を今日は語りたかったのかな〜!

読んでくれてありがとうございました!

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