【前世エッセイ】記憶のみちしるべ[単話]
私は長年不思議な夢に悩まされてきた。その夢はだいたい昔の日本が舞台の、日常の断片のような映像である。
そんな夢を見るきっかけになったのは若い頃友人に連れられて行った旅行先で強烈なデジャヴを感じたことに始まる。(というのは別の記事で書いたが)
そんな出来事が起こるより少し前、私は奇妙な人達と出会っている。仕事がきっかけで出会った人が、「私は前世の記憶があるんです」と打ち明けてきた。
一人ではない。そんな人との出会いが複数回続いた。みんな別々の場所で知り合った人ばかりである。
宗教とかスピリチュアル的な関係で出会ったわけではない。みんなただの仕事の繋がりでしかなかった。
しかも「自分の前世は歴史上の偉人であった」というひとが複数いた。たとえば「私の前世は源頼朝なんです」というような人が複数いた。同じ偉人の名前であった。
(おいおい、源頼朝の生まれ変わりは何人いるんだよ?)と内心ではツッコみながらも、仕事の関係なので笑顔を保った。
当時の私は幽霊の存在は信じていたが、輪廻転生には懐疑的だったのだ。
(しかも源頼朝の生まれ変わりだと!?)
(どうした、どうした?なんでそう思うようになった!?)
と思いつつも、私には無駄な霊感がある。無駄霊感は私にこう告げた。
『彼らは嘘はついていない。かといって本当でもない』
(・・・?)
その時の私にはよくわからなかった。わかるようになったのはそれから一年ほど経ってからのことである。
旅行先で訪れた史跡に立てられた看板にあった昔の偉人の名前。それを見て今まで感じたことのない異様なデジャヴを感じ、前世の記憶の断片を思い出した私は、それ以降遠い昔の夢を大量に見るようになった。
この夢というのが、これまたなんとも言えない不思議な感覚のする夢で、たとえば古代日本の小さなクニの王族の人間だった夢を見た。
その夢の中、現在の親族が全く別人の姿で出てくるのだが、わかるのだ。
「あ!従姉妹の●●ちゃんだ!!このクニの王女なんだ」
というように、なんとなく"わかる"のだ。
そしてこの夢を見ているときの感覚というのは、忘れてた記憶を思い出した感覚そのものであった。
たとえば、どこにしまっておいたか忘れてた失くし物の在処を思い出したときの感覚と近い。
「ああ!そうだった、そういえばあそこにしまっといたんだっけ」という感覚と同じである。
「ああ!そうだった、私ってば前世で親友と壮絶な喧嘩して、それっきりになってたんだっけ。いやぁ、すっかり忘れてたなあ、あいつ元気にしてっかなぁ?」みたいな感じで『思い出す』のである。
前世や輪廻転生を否定してきた私がこんな夢を見るようになるとは、想像だにしなかった。
むしろ私は、輪廻転生だのなんだのと言う人達のことを馬鹿にしていたのである。知らないからわからなかっただけのことを馬鹿にするとは、浅はかなことだった。
前世を語る人々が何を見て、なにを感じたのか。それを自分も体験してわかった。
たしかに変な記憶が蘇ることはあるのだと。
しかし、前世というのはあまりに遠い記憶なものだから、かなりあやふやになっている。
そしてもともと人間というのは自分の都合で記憶を色付けしてしまう生き物でもある。
同じ出来事をその場で体験した者同士のその記憶に食い違いが出るなんてことは日常茶飯事である。
事故の当事者同士の言い分が違ったり、自分も悪いのに一方的に被害者だと主張する人がいたり。人間の記憶というのは自分の都合で歪められることが多い。
これは前世の記憶についても同じである。
「私の前世は宮廷女官でした。でも王に気に入られている私を妬んだ他の女官にあらぬ罪をなすりつけられ、処刑されてしまったんです」と、自分では思っているけど、実は嫉妬されていたのではなく、単に性格が悪くて嫌われていただけかもしれない。
つまり記憶などというものはわりと自分の捉え方次第で色付けされたテキトーな思い出なのだ。
テキトーな記憶だから、「私の前世は源頼朝」などという人がたくさん出てきたりする。
おそらくみんな嘘はついていない。彼らはたぶん本当に何か遠い昔の記憶を持っている。
ただその記憶があやふやなだけなのだ。
そんな遠い昔のあやふやな記憶の旅の中、道しるべや、灯台と呼べるのが偉人の名前だ。
かつて私が前世の記憶を思い出すきっかけになった偉人の名前も、記憶の旅の始まりを示す道しるべだったのだろう。
遠い昔から有名で、誰もが知っていた偉人の名前は、現代でも誰もが知っている。
前世の自分が鎌倉時代以降の日本人なら源頼朝の名前は知っていただろうし、現世の自分ももちろん知っているはずだ。学校で歴史の授業があるのだから。
そんな記憶の道しるべである偉人の名前に、なんとなく執着してしまう気持ちはわかる。
私もこの不思議な輪廻転生の夢を見る中で、現在の自分が知っている有名人の名前が出てくるとホッとするところがある。
自分の前世を源頼朝だと言っていた人達も、おそらく源氏の棟梁の名に、なにかしらの安心感を覚えるのだろう。
遠い記憶の旅というのは、それほどまでに孤独で心細いものなのだ。
孤独な記憶の世界にさまよってはじめて、他者と共通する記憶にこそ救いがあると知るのかもしれない。
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