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隠されたノイズに触れるために

 僕はここ数年、本を電子書籍で読んでいた。手軽で便利。風呂、トイレ、真っ暗な部屋だろうと、いつでもどこでも読める。「いい時代に生まれたなぁ」。電子書籍を始めて使った日、そんなふうに思ったことを覚えてたある。
 ところが、つい先月、ある本を読んだのをきっかけに、再び紙で本を読むことに意図的に変えた。その本とは、作家・平野啓一郎さんが書かれた『本の読み方 スロー・リーディングの実践(PHP文庫)』である。

 僕はこの一冊を読みながら、残りの人生で読めるであろう本の数量を、自然と頭の中で計算していた。そして、なぜこれまで本を読み続けてきたのか、その根本的な問いについて考えさせられた。例えば、高校時代に手に取った宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、始めて味わう感動のようなものに近かった気がする。「これが感動か!」というような手触り感だろうか。また、その後読んだカート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』でも、『銀河鉄道の夜』とはまた別の感動を覚えた。大学ではドストエフスキーの『罪と罰』だったり、社会人になった最近では、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』に深く感動した。

 そう。そのほとんどが、というより、記憶に刻まれているほぼすべてが、小説や文学と呼ばれるジャンルなのである。なぜだろう……、その問のヒントとなりえそうなものが、平野さんの著書に記されていたのだ。平野さんはそれを「ノイズ」と呼んでいる。

 プロット(筋)にしか興味のない速読者にとって、小説中の様々な描写や細かな設定は、無意味であり、しばしば、プロットを埋もれさせてしまう邪魔な混入物と感じられるだろう。それらは、小説にリアリティを与えるための必要悪程度にしか考えられていないかもしれない。確かに、スピーディーにストーリー展開を追いたいだけなら、それらの要素はノイズである。しかし、小説を小説たらしめているのは、実はこのノイズなのである。
平野 啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践(PHP文庫)』

 ノイズ。ひょっとしたら僕は、このノイズに、ことあるごとに救われてきたのかもしれない。そう思うと同時に、20代後半となったいま、日本人男性の平均寿命からすると、すでにその四分の一を終えていることにふと気づいた。そして、自身の本の向き合い方について考えさせられた。大それた表現をすると「姿勢」と言えるかもしれない。

 そして僕は、その本のノイズを掬い上げる能力のある読み手でありたいという思いを、自然と抱いていることに気づかされた。もっと言うと、それぞれの本の、ノイズとノイズのつながりを見つけていきたいと感じたのである。

 このような経緯から、僕は以前と比較して、ゆっくり本に接することを決めた。「文体」という言葉があるが、一文一文の身体をイメージし、その肌触りまでも感じれるようでありたいと思ったのだ。艶や体温や骨格から、言葉の存在自体を感覚的にわかりたい。紙の本に戻したのは、これが理由のひとつである。決して電子書籍が劣っていると言っているわけじゃない。現に漫画などは電子書籍でいまも読んでいる。電子書籍は電子書籍でありがたいし、今後も使っていきたい。ただ小説や文学は、大げさな表現かもしれないが、自分の一部(血肉)になりうる可能性が、他のジャンルに比べるとかなり高いかもしれないと考えたのだ。「文体」という言葉のように、今後はより身体感覚的に、作品のノイズに触れたいのである。

 となったとき、以前から薄々興味を抱いていたある分野に、ノイズに触れるためのヒント、もっと広げると、今後の僕自身の生き方の糧になる何かが隠されているのではないか、というひっかかりを強く覚えた。その分野とは「仏教」である。それについては、先週のnoteでも述べた。

 3月から「欲望」をテーマに、先週までnoteに書いていたのだが、仏教の欲望に対するアプローチにとても関心を寄せられた。日本の就職活動だと、ほとんどの大学や専門学校で自己分析というものをさせられるが、僕自身は「身体」を理解しようと努めることが、自己認識へつながると現時点で考えている。例えば、僕は半年くらい前からFitbitというスマートウォッチを用いながら、睡眠の質や一日に何歩あるいたかを計測している。人によっては、そのように健康や体力を保とうとすることが、逆に精神的ストレスとなるようなので、一概におすすめはできない。ただ僕は元々スポーツが好きということもあってか、趣味程度の気持ちで気軽に取り組めている。そうすると、睡眠の質が低い日は、かなりの確立で「不安」「焦り」「怒り」というネガティブな感情が生じやすいことに気づいた。また、そのような日は、仕事のある平日より休日のほうが多いことにも気づいた。それまでの僕は、どうしても休日はダラダラ過ごしがちだった。一日の移動距離も平日と比較して倍以上の開きがあった。そこから考えるに、質の高い睡眠を確保するには、それなりのストレスや疲労感というのが必要なのではないか? そのように考えた僕は、休日も、平日と同じような、ある程度の刺激を身体に与えるようにした。具体的には筋トレや散歩といった行為だ。すると、その習慣が理由か断定はできないが、休日も、平日と同じような質の高さで睡眠をとれるようになった割合が増えたのである。

 身体と精神はふたつでひとつ。それを極限まで追求したのが「仏教」かもしれないと僕は思った。ここ最近、手にしている本は、何かしら仏教につながるワードや要素が散りばめられていることが多い。いや、というよりも、いまの僕の状態が、そのようなものを吸収しやすい状態であるだけの可能性がある。だとすると、僕はそこに便乗するべきではないだろうか? 先月、28の歳を迎えたと同時に、いまの会社に入社して一年がたった。その会社は、就職活動で見つけたところでない。学生時代に知人の誘いからボランティアにいったのがきっかけで、そのままそこに就職した。それは僕の意志というより、偶然、言い換えるなら「縁」に近い気がする。川の流れに身を委ねるようなイメージだ。そして、一年という時を経て浮かぶのは「感謝」である。いま、それと似たようなことが、僕自身の読書習慣に起きているように思う。この感覚が錯覚である可能性を重々承知しながらも、そこに身を委ねていくつもりだ。


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