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実現されていない可能性

 ミラン・クンデラの著書『小説の精神』を読んだ。

 正直僕にとっては難しい一作だった。それでもつまらなくなかった。難解ながらも好奇心が刺激されているのを感じ、頁をめくる手は止まらなかった。

 作中では「実存」という言葉が多用されている。僕自身、この言葉を目にしてきたことは幾度となくあったが、その度に、ほぼ無意識にスルーしてきたと思う。しかしクンデラが本書のなかで「小説は実存を探るもの」と述べているため、もう少し僕なりに意味を理解しておく必要があるかもしれないと思い調べてみた。

 実存主義に関してはこの記事がわかりやすかった。

 この記事によると、実存とは「現実存在」の略らしい。また、現実存在と対をなす概念として「本質存在」なるものもある。両者の違いは以下のようになるという。

  現実存在 → 内澤さんがいる
  本質存在 → 内澤さんは爽やかだ

 記事では、本質が「普遍的・一般的」な存在であるのに対し、実存は「個別的・具体的・偶然的」な存在であると書かれている。どうやら、この個別的・具体的・偶然的な存在を中心に据え、思考を深めていくことが実存と呼ばれるもののようだ。

『小説の精神』では『罪と罰』のラスコーリニコフを例に挙げ、小説と実存を結びつけている。

歴史家は過去に起こったさまざまの事件を語ります。それに対して、ラスコーリニコフの犯罪は一度も起こっていない。小説は現実を探るのではなく実存を探るものです。そして実存は生起したものでなく、人間がなりうるあらゆる状態の、人間がなしうるすべての事柄の、つまり、人間のさまざまな可能性の領域なのです。小説家は、あれこれの人間の可能性を発見することによって実存の地図をかきます。もういちどいいますが、実存するとは〈世界ー内ー存在〉ということです。
ミラン・クンデラ著 金井裕/浅野敏夫訳『小説の精神』48-49頁

 小説は現実でなく実存を探るものであって、実存とは「人間のさまざまな可能性の領域」らしい。さらに続いて、カフカを例にあげながら、小説・実存について述べている。

そこで登場人物と彼の世界はともにもろもろの可能性として理解する必要があります。カフカの作品では以上の点がことごとく明らかです。カフカの世界は既知のどのような現実にも似ていない。その世界は、人間の世界のこの上ない可能性、しかも実現されていない可能性そのものなのです。
ミラン・クンデラ著 金井裕/浅野敏夫訳『小説の精神』49頁

 実現されていない可能性そのものを描くこと。創作とは、クンデラにとってそのような意味なのだろうか。

 本作を読み進めていくと、カフカの名が何度も登場することがわかる。そのことからクンデラがカフカを敬愛していることが窺える。カフカの代表作のひとつに数えられる『変身』。主人公のグレーゴル・ザムザは朝起きると自分が虫になっていることに気づく。そこから基本ストーリー的に大きな展開はなされない。ただザムザの意識や感情の流れが淡々と描かれる。

 ザムザが虫として目覚め、まず思いを巡らせるのが仕事に対する事柄だ。真面目な会社員として勤めあげてきた彼は、仕事への不満が募っていた。また、彼が仕事をする大きな理由が、商売に失敗し借金を抱える両親のためである。

『変身』も、クンデラからみると、実現されてない僕たちの世界の可能性のひとつなのかもしれない。僕自身、『変身』を初めて読んだのは大学生のときだったが、ある朝急に虫になるなんてあり得ないと思いながらも、同時にザムザの感情の変化に共感している自分がいることにも気づいた。それは共感というより、まるで過去に僕自身が虫になった経験があるかのように感じたのだ。

 例えば、朝起きたとき洗面所で顔を洗おうとふと鏡をみる。するとほんの束の間、0コンマ数秒、そこに映る人物が誰だかわからなくなる。それはほんの瞬きするかしないかの刹那の変化のため、すぐに認識できない。けれど、後になり振り返ってみて、「そういえばあの瞬間、僕は、鏡に映る僕が、誰だかわからなくなっていたかもしれない」と思った。ここ数年はないが、20歳前後の頃、そんな朝を迎えた日が数える程度あったことを記憶している。

 また、こちらのnoteにも書いたが、僕は節分の日に児童施設で鬼の衣装を身に纏い、仮面をつけて鬼を演じた。そのとき、泣いた赤鬼の痛みに「近い」痛みを感じることができた気がする。

 べつに僕個人が怖がられたわけじゃない。あくまで鬼として怖がられた。それでも、そのときの僕の心は、ふだんの生活以上の重みを増して、心として、そこにあったように見えた。「思った」のでなく「見えた」のである。となると、クンデラが述べる通り、小説とは実現されていない可能性そのものという意味が、まだはっきりとでないが、わかる気がする。

 少年期の記憶を掘り起こしてみる。子どもの頃、僕は怒られた経験が意外と多かったように思う。友達と喧嘩して思わず手が出てしまったり、罵詈雑言を浴びせたりし、その度に先生に怒られていた。また、親の財布から勝手にお金を盗ってゲーム機を買ったのもバレ、結果的に怒られた経験もある。しかし、年齢と共にそのような行動に走ることは減っていった。

 ただ社会的に大人になった僕は、そんな子ども時代の僕が完全に消えたと思ってない。その当時の僕は未だ残っていて、大人になるとは、知識を身につけ経験を経ながら、そんな自分自身へのアプローチが磨かれることではないかと考えている。だから、あの当時の僕は、未だ内側のどこかに潜んでいるのである。そして、そのような影の断片が、自殺や犯罪行為に繋がる可能性を含んでいると思う。有名人の自殺や、僕と同い年くらいの人が犯罪を犯したニュースを観ると、決して他人事だと思わない。ふとした弾みで僕もその、ある種の可能性の沼に落ちてしまうと考えている。

 このような仮定が正しいかどうかわからないが、小説とは、そんな人間の可能性を描くものだと『小説の精神』が教えてくれた気がする。

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