見出し画像

グラフィティについて(私見)

アートの歴史は、画材の技術革新の歴史でもある。
そもそも画材が高価だった時代には一般的な生活水準で画材に触れることが困難だったことから、宗教や貴族の庇護なしでは創作活動は存在し得なかった。

ラスコーなどの壁画のように、ドローイングの類は多数存在していたのかもしれないが、それが後世にまで残るためには、素材としての強度と奇跡的な偶然が重なる必要があった。

結果論として、作者がそのことを知ってか知らずか、現在我々が見ることができる作品は石彫やフレスコ画など、建築に付随するするものが多い。

写真技術の発達までは報道や記録の役割を絵画は担っていたし、建築物の装飾として、屋外で誰からも見ることができる石彫が富や権力を誇示し、字の読めない人に話を伝え、自身の偉業を世間に伝える手段となっていた。

その後、油絵の具の開発により、絵画のクオリティは上がり、キャンバスや筆などの画材の一般化とともに、絵画は個人の家に飾られるようになった。
もちろん最初は宗教画がメインだったと思うが、次第に故人の肖像画や風景画を部屋に飾ることが一般化してきた。

チューブ絵の具は印象派の登場を招き、木版画やリトグラフ、シルクスクリーンによる絵画作品の大量生産は絵画の大衆化に寄与した。

スプレーペイントの発明も、グラフィティアートと密接に関係する。
素早く、どんなザラザラな面にも簡単に色を塗ることができ、グラデーションを作りやすいこの画材のおかげで、絵の具に比べて、一瞬で巨大な作品を屋外に描くことができ、しかも耐候性がある。

この画材がなければ、グラフィティはここまで普及しなかったし、2ちゃんとネットいじめが問題になるのとは比べ物にならないほど、スプレーペイントの製造会社にはグラフィティアートに対する責任がある。

結果的に現在、スプレーだけで自分の名前だけを屋外に繰り返し描くタイプのストリートアーティストは減り、彼らにもさまざまな表現方法と、スタイルの多様性が生まれ、文化としての成熟を見せている。

ゴッホは死ぬまで無名だったというが、どんなに優れた作品も、誰にも見られなかったら、それはないのと同じである。
鑑賞者が存在して初めて、作品は価値を生む。
それは多くの人の目に触れることで、誰かの脳になんらかの化学変化を起こし、コミュニケーションの連鎖のトリガーとなる。

その点で、ストリートアーティストやネットで作品を公開するようなタイプの作家はアトリエでコツコツ作り続ける古典的な作家に対してアドバンテージがある。
かつては作品を見るために、鑑賞者が足を運んだが、作品が自分から見られに行くことは、現代のアート作品では重要なことだ。
移動しやすさ、フットワークの軽さは、伝道師であり気付きを与えるパッセンジャーとしてのアーティストにとって、必要な要素になりつつある。

音楽業界では、複製のしやすさも相まって、質の良い作品ほど無料で鑑賞できるが、インスタレーションなどを含めた複製しにくいアートでは一般人には見ることも叶わない、いわば「アーティストのためのアート」もしくは「金持ちのおもちゃ」となっている。
しかし、グラフィティは自分から美術館やアートギャラリーや美術好きだけが集まるコミュニティーから飛び出し、普通の人の日常の中に現れる。

そういう意味ではストリートアートはずるいと思うし、そのふてぶてしさには羨ましさを感じる。
しかし、ストリートアーティストにもリスクはある。
その行為自体が違法である場合が多いことだ。
その点でストリートアーティストは、違法であることにこだわり続ける派と、合法的な表現に落とし込もうとする派に分けられる。
前者は、パンクであり、反体制である事で、体制を批判したり、制約無く表現することができると考えている。
後者は、歳を重ねても辞めてしまうことなく、表現することに何らかのフィードバックを求め、生活の糧とすることを考えた結果だと思う。

文化庁の言うように、アートの価値が「問いや議論を生み出す考え」であったり、「イノベーションの源泉」だとするなら、他の創作活動同様に何らかの支援があっても良いのかもしれない。

街に彩りを加えるテロリズムが、都市の形成や文化の醸成にどのように関わってくるのか、これは一種の社会実験でもある。

都市の景観という点においてはどうか?
一部の都市を除いて、印刷技術により巨大な広告が所狭しと並び、これらの広告を全く見ずに都市を移動することは不可能で、建てられる家にも、規則性はなく、それぞれの所有者が好きに壁の色を選んだりすることができる。
それは個人の服装と同じように、好きなデザインで好きな色の服を着ることができる。

趣味の悪い服を着た人を見かけることはあるが、その人に趣味が悪いから俺が選んだ服を着ろと言うのはナンセンスなように、人の家のデザインに文句を言うのは傲慢に思える。

作品を人に見せることは悪いことではない。
自分が描きたい作品は、たとえ毒だったとしても、毒ゆえに誰かの薬になる可能性がある。

自分の主張を拡声器を使ってばら撒きながら街を走り回っている選挙カーや、パチンコ屋のファサード、電車の窓の目の高さに貼られた広告のように目障りでも、耳障りでもない。

もちろんスタイルバトルであるからには、好きな作品があれば、そうでない作品もあるだろう。
しかし多様性の価値の代弁者である我々が、ただ自分が好きでないと言う理由のために、他人の作品の存在自体を攻撃することができるのだろうか?
身体中に刺青を入れてしまう人や、デコトラや、痛車も同じ同時代の(コンテンポラルな)文化活動である。
それは、作品が嫌いだからと言って作家の人格否定することがナンセンスなように、同じ一見すると無駄なものに価値を見出し、作風の希少性や多様性を肯定する文化活動に携わる人種として、社会的に成立している文化活動に対して寛容な考え方を期待したい。