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遅ればせながら映画「Winny」を見て、感想のような自分語りのような

 2023年10月、映画「Winny」を見ました。プログラマの金子勇さんがP2Pファイル交換アプリ「Winny」を開発して公開し、広く利用されたものの著作権侵害幇助等の疑いで逮捕され、裁判を闘って最終的に無罪を勝ち取ったという実話に基づく映画です。
 映画に対する私の評価は、85点(100点満点)。「問題なし」とは言わないけれども、見ることを強く推奨します。物語としてエンタメとして素直に楽しめるだけではなく、意識せずに使っているコンピュータとインターネットの技術について、何をどう意識すべきなのかを楽しみながら知ることができます。特に日本語話者の皆さんは、日本語で理解できるわけです。見ないのはもったいないですよ。
 なお私は、ご生前の金子さんとは全く面識がありませんでした。友人知人の中には金子さんを直接知る方が多数いますけれど、私はご縁がないままでした。


パソコン少年少女がパソコンを所有できるとは限らなかった時代


 映画の中で、小学生時代の金子勇さんが、書店でプログラミング雑誌に掲載されているBASIC言語のプログラムリストを立ち読みして暗記しては近くの電気店に走り、店頭に展示されているパソコンに打ち込んでプログラムを動作させるエピソードがありました。パソコンはNECのPC-8001で、1979年に発売された製品です。金子さんは1970年生まれですから、9~10歳の時期に店頭で触っていたのでしょうか。金子勇さんは当初、天文少年だったということです。天文手帳や天文年鑑から小学校国語で習わない漢字や用語やアルファベットを覚え、大人向けの科学誌や技術誌を読めるようになるという成り行きは、珍しくはないと認識しています。
 私は大いに共感しました。というのは、1963年生まれの私自身にも似た経験があったからです。電子工作が好きだったので、9~10歳でそういう専門誌を読んでいましたし、アマチュア無線の資格取得のための勉強もしていました(が、受験に行かせてもらえず、そのまま)。そういう部分的に早熟な子どもの周囲には、面白がって伸ばしてやろうという善意のお兄さんやオジサンが現れるものです(お姉さんやオバサンにもいてほしいのですが、時期的にかなり困難でした)。

金子さん、私もやったやった、それ!


 コンピュータと私の最初の出会いは、子どもの頃から通っていた福岡市天神の「カホ無線」という電気店の電子パーツフロアの壁際に展示されていたTK-80でした。時期は1976年か1977年だったと記憶しています。私は中1~中2くらいでした。「これはなんだろう?」と思った私は、そのフロアの反対側の壁際の書籍コーナーで調べてみて、「これはマイコンというものであり、プログラミングということをすれば、いろいろなことをさせられる」ということを知りました。そして、同じフロアを行ったり来たりして、プログラムを一行ずつ覚えては入力して動かしてみようとしたのですが、モノになりませんでした。当時は、素人がかろうじて手に届く価格帯のコンピュータで高級言語は動いておらず、キーボードは16進、入力するのはアセンブリ言語のニーモニック。一つの命令で出来ることは極めて少ないし、そもそも店頭のマシンを私が独占使用できるわけもなく。当時住んでいた春日市から福岡市中心部に行くにあたっては、交通がかなり不便でした。というわけで、モノになるまで取り組むことはできないままでした。
 でも、金子少年の似たようなエピソードを映画で知って、私は嬉しくなりました。ソフトウェアエンジニアとしては大したレベルに達しなかった私は、少なくとも「入り口」において、金子さんと似たような経験を持っています。同じ時期の同じ技術や同じような製品、そして「あまりにも高価につき子どもや少年少女が所有することは稀だった」という共通の根から、きっと数多くの子どもたちや少年少女たちが多様な芽を出し、それぞれに成長したはず。私は改めて、自分自身の過去をそのように認識できました。

20世紀の「天才プログラマ」「できるエンジニア」のリアル


 映画の中では、金子さんの生活ぶりがリアルに描かれます。リクライニングベッドの上で生活。起きたら顔も洗わずにオーバーテーブルの上のパソコンに向かい合って、寝る前のプログラミングの続きに取り組む。食事は、プログラミングしながら食べられる袋入りのジャンクフードやジュース。身だしなみは気にしません。それで許されるのは、世の中に一定の理解はあったからです。プログラミングという世界共通語を手にし、高いレベルの成果を生み出し続けている世界トップレベルの突出したプログラマに対して、身なりや話し方や態度を注意して「角を矯めて牛を殺す」ようなことをしてはバカバカしすぎますから。
 1980年代のプログラミング技術は、今でいう「コミュ障」でも生きていける道の一つとして理工系男子に期待されるものの一つでもありました。「不健康なライフスタイルが出来るエンジニアの証」といった倒錯した認識もありました。私自身にも、金子さんのような生活をしていた同世代のソフトウェアエンジニアの友人知人が数名いましたが、そのほとんどが40歳代から50歳代前半で、高血圧や動脈硬化と関連した病気で他界しました。
 金子さんご自身が2013年に43歳という若さで心臓疾患で他界したこととあわせ、生活ぶりの描写には、哀しくもリアリティがありました。

ビルディングス・ロマン(成長物語)として

 映画の冒頭近くで、金子さんは刑事事件の容疑で逮捕された被疑者となります。「技術バカ」「技術オタク」でありすぎた故に、取り調べの罠にあっさりとハマってしまい、のちのち裁判で無罪を獲得するにあたって苦労する様子が「実際にそれに近かったんだろうなあ」という感じで描かれ、スクリーンを見ながらヤキモキします。弁護士が接見しても、コミュニケーション能力の低さは隠しようがありません。釈放されると、「焼き魚の食べ方も知らない」という世間知らずぶりを示します。
 しかし、弁護士たちとともに裁判に取り組むプロセスを通じて、金子さんは人間として成長していきます。裁判官たちも、一般市民社会も、自らの開発した技術やアプリケーションが優れていることを示せば評価されるという世界ではありません。実際に悪意がないから「悪意はなかったであろう」と考えてもらえるとも限りません。理解を広げて味方を増やしていくためには、それなりのスキルや戦略が必要です。金子さんは裁判プロセスを通じて、弁護士たちとのチームワークの中で、プログラマとしての成長の影で遅れていた人間的な成長を獲得します。その変化は、イモムシが蛹になって蝶になるかのように劇的です。
 私が映画「Winny」の魅力を1点だけ挙げるなら、このビルディングス・ロマン(成長物語)の側面です。それは「人は変われる」「人は成長できる」「変化や成長に遅すぎるということはないし、正しい順序があるというわけでもない」という、誰にとってもポジティブなメッセージです。

もう一つの物語、コンタクト・ゾーン、そして余白の残し方

 映画「Winny」における金子勇氏と弁護団の物語には、遠く離れた愛媛県のもう一つの物語が重なります。当時、愛媛県警に勤務していた仙波敏郎氏(警察ジャーナリスト)による内部告発です。
 金子氏を見込み容疑で逮捕して有罪にしようとするのも警察、仙波氏が勤務して不祥事の内部告発をしようとするのも警察。エンジニアリングの世界も、法曹の世界も、「きれいごと」だけの一筋縄であろうわけはありません。映画「Winny」は、そういった複雑さを内部に含む複数の「業界」のコンタクト・ゾーンの物語と見ることもできます。
しかし金子氏と仙波氏が、映画の中で接点を持つことはありません。唯一の接点は、「仙波氏の内部告発した不祥事の証拠がWinnyで暴露された」という描写です。そして、仙波氏の物語は「内部告発の内容に関する証拠が現れた」というところで途切れたまま、映画は金子氏の生涯の終わりというラストに至ります。
 この余白の残し方は、見事だと思いました。仙波氏を金子氏と絡ませることなく、仙波氏に関する描写をあえて中途半端にしておくこと自体が、多義的な読みを可能にしているからです。その一つを言語化するならば、「金子勇さんの正義は、このように正義であることが確認されました。仙波敏郎さんも、もしかすると。そして、あなたは? あなたの正義とは?」。

トッププログラマからの「Winny」批判に、なぜ触れない?

 映画の中で描かれる「Winny」と金子勇さんへの批判は、政府はじめ公権力、そして内容をよく知らない一般市民からのものでした。この点は、金子さんが逮捕された当時をリアルタイムで知っている私から見て、「それはないでしょう」と批判したいところです。
 金子さんに対する「著作権侵害幇助」という容疑が妥当だったかどうかはともかく(私は妥当ではないと考えていましたが)、金子さんと同様に世界的に評価されているプログラマや発言力の強いトップエンジニアからも「どう使われるかを考えずに技術開発するのは良くない」という批判はありました。批判した方々の多くが現在も存命であるからこそ、この点には触れるべきだったと思います。「立場や経験の多くを共有しているプログラマやエンジニアからの批判を見て、金子さんが混乱したり激しくヘコんだり孤立感を味わったりした」という描写があれば、リアリティは増し、作品の価値はさらに高まったであろうと思います。私が「100点満点の85点」と評した減点ポイントは、主にこの点です。

好きなことを「好き」と言い続けられなかった私から、金子さんへ

 1960年代から1970年代にかけて生まれ、コンピュータ技術やプログラミングを何らかの形で生業とした経験を持っている人々、現在の40歳代後半から60歳代前半の人々は、大なり小なり、金子勇さんの経験と重なる経験をしているはずです。でも、その人々のほとんどは、突出したレベルのプログラマにはなりませんでした。「金子さんたち」と「それ以外」を分けたのは、何なのでしょうか?
 持って生まれた才能は、大きな要因の一つでしょう。しかし私は、好きなことを「好き」、やりたいことを「やりたい」と言い続け、「好き」で「やりたい」ことにしがみつく能力こそが最大の分かれ目だったと思います。もしかすると、ほどほどに「モテ」への関心や社交性があり、会社員生活や通勤が可能な程度に「ふつうの生活」や健康を重要視したいという気持ちがあれば、どうしてもプログラミングにしがみついて突出する必然性がなかったのかもしれません。
 私には、プログラミングに熱中した時期が延べ2年ほどありましたが、幸か不幸か、金子さんのようにその道で突き抜ける成り行きにはなりませんでした。それどころか自分ののめり込みぶりが自分で怖くなり、「これを本業にしたら危ない」と考え、情報系には絶対に進学しないと決めて物理学科に進学したほどです。女子の理系進学どころか「女子が大学なんて」という当時のジェンダー規範の影響はありましたが、好きでやりたいことにしがみつく能力が最初から欠けていたのでしょう。その後、中途障害者にはなりましたが、そこそこの健康に恵まれた59歳、なぜか社会学で博士学位を取得したばかりです(博論を出版した書籍こちら)。1987年からは、延べ6匹の猫と暮らしてきています。最初の4匹はすでに天国、今は2匹と共に暮らしています。
 プログラミングには関心はあり、再開したいと思っています。少女期や青年期になんとなく自主規制していた「競う」「尖る」という方向性を恐れない自分になりたいとも思っています。でも、なんといっても最優先すべきなのは、2匹の猫の養母であることです。健康も社会性も犠牲にしてプログラミングにのめり込むような生活をするわけにはいきません。
 金子勇さんより7年早く生まれ、より長く生きる巡り合わせとなった私は、同じ時代に重なって生きていた星を眺めつつ、今後も自分なりの光でありつづける道を模索することでしょう。
 そして、さまざまな方が各々に意義を見出すであろう映画「Winny」が制作されたこと、そのベースとなった事実を生み出した方々とそのご著書に、心から感謝します。


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