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250112 阪神・淡路大震災30年
パーフェクト・デイズ 022
新聞で震災30年を契機に、阪神高速の「震災資料保管庫」が特別開館すると知りました。保管庫は家から5㎞ほどのところです。自転車に乗って観に行きました。展示されているがれきの迫力に、当時のことを如実に思い出しました。心がざわめきます。思い出すままに、33歳だったボクが経験した阪神・淡路大震災の一部を書き留めておきます。
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高速道から落ちかけているバスが写っています
1995年1月17日5時46分、トイレで本を読んでいました。遠くで地鳴りが聞こえました。すべての空間を押しつぶすような、あの超重低音アンビエントは、それまでも、それからも経験したことがありません。直後、マンションが小さく揺れました。やっと地震に気付きました。いつもならすぐに収まります。しかし、続きました。え?、と思った次の瞬間、激しい揺れが襲ってきました。
トイレの壁に何回か頭を打ち付けられました。揺れは15秒も続かなかったそうですが、その間に頭は高速で回転しました。これは棟が倒れる。マンションが倒壊した後、トイレで発見されるのはたまらないと思いました。家族のみんなが寝る寝室には、重く硬い洋服ダンスがあります。その先は考えてはいけないと思いました。
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マンションは倒れませんでした。トイレを出て、早く寝室に行こうとしました。キッチンの食器棚が食器をぶちまけていました。一瞬躊躇しましたが、裸足でそろっと破片の上を歩きました。足の裏を何か所から切りながら、寝室を見てホッとしました。洋服ダンスは倒れていません。元妻も子供たちもまだ寝息を立てています。さすが大物と感心しました。
火事が起こるかもしれません。みんなを起こして、近くの公園に逃げることにしました。廊下に出ると、扉のすぐ近くの天井の隙間からダーッと音を立てて、水が滝のように落ちていました。屋上の高置水槽が破裂したようです。階段を降りて、3分ほど歩いて公園に着きました。近くの一軒家の人が朝の散歩に来ていて、「避難しているんですか?」と聞いてきました。
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しばらくして家に戻りました。散らかった部屋をかたずけることにしました。ボクの寝室は本棚が倒れて、本が布団を埋めつくしていました。ここに寝ていたらどうなっていたのだろうと思いました。すぐに水道から水は出なくなりました。ガスは元栓を閉じました。
そんなことをしている時に、向かいの御主人が仕事に行くと声をかけてきました。彼は社長さんです。大阪の会社が心配だと言います。この状況で出勤するのかと驚きましたが、すぐにボクも職場へ行くことにしました。家族はとにかく無事でした。だったら、彼の責任感を見習わなければと思ったからです。
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職場までは自転車で30分ほどです。その時にはわかりませんでしたが、震源地から遠ざかる方向でした。町全体にもやがかかっているようでした。あたりがよく見えません。潰れている家屋などはほとんどなかったと思います。途中、河岸段丘の急坂を登ると、まったく平和な、普段どおりの家並みが続くように見えました。
学校の門を入ると、校舎は倒壊していませんでした。しかし、中に入ると、さまざま壊れていました。最も深刻だったのは、職員室の真ん中、窓際にある柱の座屈でした。大きな余震がきたらどうなるのか。心配でした。事務室で電話が鳴りました。誰も出ません。仕方がないので取りに行きました。以後、1週間、そこで寝泊まりして、電話番をすることになりました。
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二日目になって、被災された方が大勢避難してきました。学校近所の生徒も何人か登校し、3年のAさんの家が土石流に埋もれていると教えてくれました。救助しようと努力したけれど、わずかな人数ではまったく歯が立たないと言います。すぐに、彼女の学級担任と一緒に行くことにしました。
学校から歩いて15分ほどのところです。川沿いの宅地に泥の小山ができていました。川向こうの急斜面を見上げると、高いところの地面がはぎとられて白々とした土をさらしていました。あそこから大量の土石が流れてきたのだと分かりました。泥の小山は、ただただ静かでした。ボクらは何もできませんでした。
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三日目、またAさんのところへ行きました。昨日とうって変わって喧噪のさなかでした。空には新聞社のヘリコプターが何台も騒音をまき散らしていました。自衛隊が到着し、重機で土石を掘り返していました。周囲は捜索を見守る多くの人がいました。衆人環視の中、ユンボがうなりを上げるたび、一枚一枚秘密が暴かれていくようでした。
一家全員が亡くなったと知ったのはいつだったか覚えていません。Aさんは1年ほど前に、大学進学のため問題集の添削指導をしてほしいと言ってきたので、何度もやり取りをしていました。幼稚園の先生になるのが夢でした。ずいぶん経ってから葬儀がありました。さみしい式でした。祭壇の正面には「南無大師遍照金剛」と印刷された軸が掛けられていました。そんなのウソだと思うと、涙が止まりませんでした。
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パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ
日常が帰ってくるまで、原民喜のことばがずっと頭の中にありました。原爆とは比較にならないにしても、震災も日常を一瞬で剥ぎとっていきました。あるべきものがなくなり、まっすぐのものが斜めになり、壊れているものを取り除くだけの世界は不安でした。どれほど日常に依存しているかよくわかりました。
亡くなった人と生き残った人の違いは何なんでしょうか。分かりません。「偶然」という簡単なことばで片づけるにはあまりに陳腐です。何も解決していません。せめて、解決していないということを忘れないでおこうと思いました。