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実話怪談の周辺#3 実話怪談は誰のものか

初めましての方は初めまして。どこかでお会いした方はいつもお世話になっております。実話怪談作家の神沼三平太です。この記事は、実話怪談の執筆をめぐるエッセイ風の内容になっています。実話怪談そのものではありませんが、一部の内容には神沼がどのように実話怪談を書いているかというような舞台裏のような内容も含まれています。100円ですが全部読めます。面白かったら投げ銭してください。

それでは今回もそろそろ始めましょうか。

実話怪談は誰のものか

今回は少しややこしい話をします。実話怪談を作品として執筆したとして、その執筆された怪談は誰のものか、という話です。これには二つのパターンがあるかと思います。

1. 自分が怪異体験をして、それを自分で書く場合
2. 他人の怪異体験談を取材して(体験者から直接でも、体験談を聞き集めた人からの取材でも)、それを書く場合

他にもパターンはあるかと思いますが、まずはこの二つについて考えてみましょう。

自分が怪異体験をして、それを自分で書いた場合

これは全く問題ないですね。自分の体験ですもの。これは自分の体験を自分で書いたもの。権利から何から自分にあるはず。ただし、この場合、「本当に起きたことなのか」と疑われる可能性があります。自分のことなのだから、確認しようがない。だから好き勝手書けるじゃないかという批判ですね。これを避けるためには、自分が怪異体験をしたのだけれども、それをあえて他人が体験したことのようにして書くという場合も考えられそうです。

自分の怪異体験談ではない話を聞いて、それを書く場合

さて、次のパターンです。ここからが本番です。ノウハウというよりも心構えのような内容も含まれてきますが、とても重要な内容だと考えています。

まず前提として、そのエピソードを執筆することについて、実体験者または蒐集者の許諾を得ていなくてはいけません(許諾を得られていない場合も考えられますが、ここでは扱わないことにします。たとえば他に相続者のいない身内から、その人が亡くなる前に体験を聞いた場合など)。

なぜ許諾が必要になるか。まず神沼の場合は、体験者の体験は体験者に帰属すると考えています。だから体験者がその体験談を誰に話すことも自由(本人にとっては、クラスの仲間に話すのも一緒でしょう)だし、それについて止め立てすることはできないと考えています。これは当たり前の話です(稀に当たり前ではないと考えている人もいますが、その人に何の権利があってそう考えているかはよくわかりません)。

ただ過去、実話怪談業界ではトラブルの原因になる可能性が高いかったのでしょう。「そのお話をぜひ本に書かせてください。ただ、この話は他の人(基本的には怪談作家)には提供しないでくださいね」と伝える慣例になっていた。そういう認識です。でないと、同時多発的に同じ話が別の書籍に掲載されるということがあり得るからです(実際には出版社側の方でチェックされる場合もあるかと思います。これは神沼も一度体験したことがあります)。

しかし今の世の中、体験者本人がYouTubeで怪談語りをしたり、Twitterで体験談を書いたり、後になって、怪談師に提供して語ってもらった方が良いと考えたりすることもあるでしょうから、作家に対してその体験談を独占的に提供するというスタイル自体は時代遅れになっているように思います。なお日本においては、作家の書いた文章自体は著作権によって保護されているので、文章自体に限れば、それは作家のものと考えてよいかと思います。

さて、ここまで特に気にもせず、安易に「提供」という言葉を使ってきました。しかし、「提供」というのは「囲い込み」「独占」のようなイメージを想起させます。怪談には「独占」はあまり似つかわしくない言葉に思います。「他人の体験を今後独占的に扱う」という話になりますから。

怪談を蒐集していると、体験者からの直接取材ではなく、体験者からの取材をした人の話を取材する(いわゆる又聞きによる取材)ということもあるでしょう。この場合は、体験者と直接の関係があるのは取材者ということになります。この場合は、本来なら体験者を直接紹介してもらえるならそれが一番良いのですが、そうでない場合もあるでしょう。その場合は、取材者との関係で紹介の許諾を得ることになるでしょう。

先ほど「体験者の体験は体験者に帰属する」と書きました。つまり、体験者であれば自由に使っても良いということです。しかしこれを第三者が横からかっさらって、一方的に「世の中にはこんな体験をした人がいるんですよ」と喧伝して良いかというと、当然ながらそんなことはありません。体験者だけではありません。取材者に関しても同様です。そこには「あなたなら私の体験を紹介しても良いですよ」「あなたが信用している人になら私の体験を紹介してもらってもいいですよ」という信頼関係こそが必要なのです。特に体験者や取材者と長く関係を持つならば、それは必須な心構えでしょう。

怪談作家なら、怪異体験を当然入手する権利があるはずだ、怪談師なのだから、怪異体験を話してもらえるはずだ、怪異体験を皆が広めてもらいたがっているというのは、傲慢な考えといえます

これについては、神沼とも親しい怪談蒐集家の小泉怪奇氏が以下のようなツイートをしています。

また、体験者と取材者と怪談作家という枠組みでは、以下の内容についても理解しておく必要があります。

なお、上の二つのツイートを含む以下の(怒りを孕んだ)ツリーは怪談作家や怪談師が、他者の取材した体験談を紹介する際には特に必読だと考えます。

そもそも実話怪談作家は、一介の怪異体験の紹介者なのです。怪談は恐怖という感情を喚起する文芸ですが、恐怖を喚起するように書くと同時に、起きた怪異体験を紹介するという二つの役目を同時に持っています。紹介者ですから、「他人のもの」「提供者との関係」を適切に取り扱う心構えが必要になります。つまり怪異体験者、紹介を許諾してくれた取材者に対して、それぞれ敬意を持つことが重要になります。

実話怪談の価値は、体験にあるのか、作家の文章にあるのか

さて、少し話を変えます。

実話怪談作家が怪談の紹介屋だとして、もしも書籍に掲載されている実話怪談の価値が、体験者の体験が九割で、文章が一割だとしたら、実話怪談の著者とは単に「体験談を集める能力に価値がある人」ということになります。もっと極端な話をするのであれば、この場合、文章には価値はない(誰が書いても同じ)であって、体験者のみが価値がある。評価されるべきは著者ではなくて体験者であり、例えば書籍の売り上げは体験者が得るべきだということになります。なるよね?

この考え方は一理あるように思えます。なぜなら実体験のできない実話怪談作家(実体験ができる実話怪談作家は、体験者と同一なので問題ありません)は、体験談を聞き集めることでしか執筆ができないからです(それゆえ、一部では「怪談乞食」と呼ばれているようです。他人の褌で稼いでいる、みたいなこともよく言われます)。この「他人へのインタビューがない限り、作品化できない」というジレンマに関しては、「インタビュー記事はインタビューされた人の著作物なのではないか」という問題にも通じるところがあります。この問題については、以下のページが参考になるかもしれません。

逆に言えば、実話怪談という作品を書くために、作家はどの程度のことができるのか、という話です。体験談のみでは伝わらない部分や社会状況、体験者の記憶から起きた出来事を時系列に並べるといった、様々な手続きがそこには含まれています。作品として完成させるために、このような手続きがきちんとなされているということを理解してもらえるように振舞えば、きちんとした仕事をしていることが取材先にも伝わるのではないかと期待できます。一方で、もし取材をされた側が、インタビュー記事の著作者になると言い出すようなレベルの場合(つまり作家側がふさわしい仕事をしていない場合と思われますが)、その時には著作権を主張されても仕方がないでしょう。そんなことは起こらないと思いたいですが。

さて、そんな感じで、いつも自分は体験者、または取材者からの信頼に足る振る舞いをしているだろうか。インタビュアーとして、また作家としてどの程度できているだろうか。いつもそんなことを考えてる日々なのです。

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