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実話怪談の周辺 #4 オカルトと怪談

初めましての方は初めまして。どこかでお会いした方はいつもお世話になっております。実話怪談作家の神沼三平太です。この記事は、実話怪談の執筆をめぐるエッセイ風の内容になっています。実話怪談そのものではありませんが、一部の内容には神沼がどのように実話怪談を書いているかというような舞台裏のような内容も含まれています。一記事100円ですが(公開後約一ヶ月間は)全部読めます。面白かったら投げ銭してください。

今回はオカルトと怪談はやや違うよね、という話をします。それでは始めましょうか。

オカルトと怪談

オカルトの語は元々ラテン語のocculta(隠されたもの)から来ているというのは有名な話ですね。つまり、表立っていない、明らかになっていない知識を指します。隠された知識ということで、ちょっと思いつくものを順不同に挙げてみると、魔術、超能力、心霊、宗教の世界観、正史とは異なる歴史、民間伝承、民間宗教、妖怪、魔物、呪い、まじない、祟りなど。オカルトとは、これらに関する知識と解釈、と捉えられそうです。最近だとここにUFOとかUMAとかも含めるのかな。

よくオカルトを信じる、というような言い方がされますが、オカルトの本質は知識ですから、信じているとか信じていないとかではないのです。それよりも知っているか知らないか、そっちの方がよほど重要。知識があれば現象を解釈できるし、道具として使える。だから信じるとか信じないとかとはレイヤーが違う話なのです。例えば英語の文法や単語を知っていれば、英語の文章を読めるといったことに近い。もっというなら世界を解釈するための視点を増やすことができるということが、オカルトに関する知識がもたらす影響です。ある知識の体系からすれば、ある現象はこう位置付けられる。別の知識の体系からすれば、同じ現象はこう位置付けられる。オカルト的解釈というもの、このように多次元的です。だから、オカルトには唯一絶対の視点がある訳ではなくて、むしろ多種多様な視点を駆使することで、目の前の現象を分類したり解釈したりすることを目的の一つとしているのです。

一方で実話怪談をはじめとする怪談はそれとは違います。怪談、特に実話怪談は、大元は心霊現象(に限らないんですが、祟りとか呪いとか神様とか妖怪とか、まぁ色々)に遭遇した事例を記述した怪異体験をベースとして記述された「怖さや不思議さといった感情を喚起させるための文芸」な訳です。読者や視聴者に対する恐怖感情の喚起を目的としたエンタメが怪談。

今の説明からご理解いただける通り、神沼はオカルトと怪談ははっきりと違うものと考えています。いや、人によっては両方とも「不思議なこと」を扱っているので、同じ穴の狢のようでもありますが、実のところ同じではない。

実話怪談はオカルトの視点からすれば事例報告

実話怪談はオカルトに含まれますか? バナナはおやつに入りますか? 実話怪談はオカルトの視点からすると、オカルトに含まれるといっても間違いではない。これは単純な話で、オカルトは知識ですから事例に関する知識を含む訳です。つまり実話怪談の一話一話が、世界を解釈するために収集し、分類し、研究する対象になっている訳です。

オカルトは科学のご先祖様ですから、方法論がそっくりなのです。ニュートンもケプラーも錬金術師。つまり現代的にいえばオカルティストと呼んで差し支えないでしょう。科学は現象を収集し、共通性を見出して分類整理する。さらにその分類整理の結果から現象の予測をするのが目的です。だから、実話怪談の大元になっている怪異体験を分類整理の対象とする訳です。

オカルトは世界を解釈するための視点ですから、それらの事例報告を元に、我々の目に見えない、手で触れることのできない世界(たとえば心霊の世界、死後の世界、形而上の世界)に関しての(隠された)知識を蓄積し、仮説を立て、その仮説に基づいて世界の解釈を行っていく。もしもその仮説が別の事例によって破られてしまうのであれば、別の仮説を立てて再度世界の解釈を行っていく。そういう性質のものです。

オカルトの視点は怪談を解体する

オカルティストでなかったとしても、身に付けたオカルトの知識を駆使しながら実話怪談で体験者が遭遇した心霊現象を解釈することは、「オカルト好き実話怪談マニア」の大きな楽しみでしょう。「この話に出てきたこの現象からすれば、背後におそらくこういった呪いのしくみがあるに違いない」「この話はこの話と共通性があるので、きっと霊の世界ではこんなシステムになっているのだろう」。このようなことを考えたり、同じ趣味を持っている人同士で語り合うのは、すごく楽しい時間です。怪談会などでもよくみる光景ですね。しかし、これはあくまでもオカルト知識をベースとした解釈に過ぎません。解釈を下すことで、我々は最終的に自分を納得させてくれる説明に辿り着きます。納得することで、怪談に接することで宙ぶらりんになった不安な心に、安心感を取り戻すことができます。あぁ、これで説明がついた。もう怖くないぞってなものです。

誰もその説明が真実だなんて保証はしてくれませんけどね。

でも仮説を立てることで我々は安心をすることができる。神沼を含むオカルト好きな怪談愛好家の一部は、自分を安心させるために、自分を納得させるために、オカルトという鋏でジョキジョキと実話怪談を解体していく癖があるようです。あの本のあの話と似ている。あの動画のあの話と共通している。あの人が語っていたあの話は、きっとこういうことが背後にあるのだろう。

解体に夢中になっている我々は、その時笑顔を浮かべていることでしょう。

解体された怪談はもはや怪談ではない

オカルトの視点からすれば、実話怪談は分類整理される研究対象です。だからオカルト好きは分類整理して共通点を見つけ、その話を楽しむことができます。それは楽しみ方の一つとして「あり」だと思います。神沼も大好きです。集めた昆虫を分類整理して、標本箱に並べてうっとりしているようなものです。満面の笑顔で。

たとえば、拙作に「もう二年まだ二年」(「恐怖箱 百眼」竹書房,2014)という作品があります。画像で引用します。

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極端な話になりますが、この例を「お盆に亡くなった身内から携帯電話に電話が掛かってくる話」とオカルト的に解体することもできます。電話怪談の一種であり、お盆という日本的な風俗に基づく怪異。また、身内や親しい者に対して枕元に立つというパターンの改変か? そう捉えることもできそうです。オカルト的に見た怪異現象としては確かにそのように解釈できるでしょう。しかし、怪談としての肝はそこにはないことが理解できるのではないでしょうか。この実話怪談の肝は、「母」の感情に触れることによって読者の心が揺り動かされる点にあります。

この例は極端ですが、オカルト的視点から解体された怪談は、もはや解体者にとっては怪談ではなくなってしまいます。面白い話ではあるかもしれないけれども、もはや怖がらせてくれる、不思議がらせてくれる話ではないのです。知識の量が怪談を楽しめることに直接繋がらない場合も多々あるということです。

――どうやって動いてるのか知りたかったから、どんどん切り刻んでいったら、途中から動かなくなっちゃった。

そうなってから生き返らすことはできないのです。怪談は受け手に怖さや不思議さといった感情を喚起させるためのものですから、解体者は怪談を別の目的のために使っていると言われても仕方がないのかもしれません。

知識を棚に上げて怖さや不思議さを楽しもう

身に付けたオカルト知識を消すことはできませんが、怪談に接する際には、積極的に怖がっていく、積極的に解釈を捨てていく方が良さそうです。(怪異体験ではなく)「怪談」は感情を揺さぶられるための媒体です。楽しんだ人とは、感情を強く揺らされた人といっても良いでしょう。

怪談作家は感情を揺さぶるために、様々な仕掛けを施していることでしょう。実話怪談を読んだり観たりする際には、知識や解釈ではなく、感情に集中した方が楽しみは大きいように思います。

もちろん怪談をどう楽しむかは人それぞれです。オカルト的に切り刻んで類型を整理し、世界のあり方を探るのもありだと思います(神沼もよくやります)。しかし、まずは怖がったり不思議がったりする方が怪談を楽しむという態度としては正道な気もします。

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