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映画史的に有名な<オデッサの階段>など映像の仕掛けについて

今回は映研的な、夏休み研究のテーマ探し的な、何十年か見続けた映画についての感想というかひとり言を書いてみたい。
映画 虚構の魔術というテーマで、映画ファン的ブログを書いている。このバナーには、私が映画(特に生身の人間が出る実写版の映像)に持っている偏見というか、視点が入っている。

映画の語る真実とは?

私にとってはドキュメンタリー、小説の映画化(小説が実話をベースにしたものでも)、時代劇やSF、ミュージカル、ホラー、サスペンスはもちろん、ニュース映像も含めどんな映像も創作(虚構)だ。映画や映像を否定する意図はない。私は映画狂い。好きなものを徹底的に理解した自分なりの結論だ。

冷静に考えれば分かる事だが、映像作品には作家または製作者、スポンサーの意志が入っていて、その意志に沿うようデザインされている。つまりテレビCM、ネットCMと同じ位置づけ。

例えば、わずか二時間、長くても三時間半程度。そんなごくわずかの時間の中で、ヴィクトル・ユーゴー(※)の小説「ああ無情」を完全に再現することなど出来るはずがない。小説が書かれた時代背景を知らない現代人に向け今風に要約されアレンジされる。「ああ無情」とはどんな作品か。そこが掘り下げられる訳ではないし、目標は、そこにはない。

当時を再現したような背景、すばらしい音響と音楽の中で、生身のトレンド俳優・タレントが演じる姿を見れば、演者への親近感も効果を上げ、200年以上も前の建物や風景、風俗や語り口、ストーリー、登場人物も含め何もかもが<現実>のように見えたりする。

訴求力がすべてに優先

ドキュメンタリーも、<話を分かりやすくするための演出として>素材を切り取る角度を変えたり、時間や場所を入れ替えれば、真実とは異なるものに姿を変える可能性が高い。

犯罪・事件の記録であったとしても、加害者側から描くか、被害者側から描くかで印象はかなり違う。両面から公平に描くと、つまらない作品になる。事実は意外に平凡でエンターテインメント性に欠け訴求力に劣るかもしれない。

訴求力がない作品からは興行収入や視聴率が期待できないので、資本家(スポンサー)は費用を出し渋る。そこで制作続行のため訴求力を高める方向に舵を切り、どんどんとお話は事実から離れて行く。

映像の目的は誤解・妄想の生産

その昔、リュミエール兄弟という、映画創成期の興行人が製作した「ラ・シオタ駅への列車の到着」(※)という映像がある。走ってくる蒸気機関車を撮しただけの映像だが、観客は汽車にひかれると思いパニックになって逃げたという有名な伝説があった。

上のリンク先には、この伝説は作り話(promotional embellishment)と証明されたという記載がある。しかし、映像には観客の没入感を亢進し妄想をかき立てる作用があるのは確かで、映画館での鑑賞やパブリックビューイングはそれを更に高める効果がある。一体感、同時体験が効果を促進する。

映像が先か、真実が先か

映像は人の心にぐっさりと入り込む仕組み、言い方を変えれば洗脳が主な作用。例えば織田信長や豊臣秀吉の本当の姿を見た人など現在の世界にいるはずがない。しかし、映画やドラマの登場人物として、信長や秀吉<風の>味付けをした俳優が<それらしく>演じると、その姿が見た人の頭に焼き付き歴史的人物像として定着してしまう。

虚構であるはずの映像は真実を作ってしまう。歴史的真実の記憶が映像作品を見たせいだったという可能性はゼロとは言えない。

だって私、ニュースで見た!

こういう場合、仮にそのニュースが<作品>だったら?という妄想をすると鑑賞のバリエーションを増やせる。ニュースにもスポンサーがいる。制作者の意図により切り取られ、時間を入れ替え編集され、エキストラまで動員して脚色されている可能性は?というのが鑑賞上のポイントになる。

ある放送局、番組会議前の会議室をたまたま目にした事がある。席に視聴率データが配布されていくのを見て驚いた。CMがない局でなぜ視聴率?つまりは、そういう事。見てもらえなければ意味がないので盛る。公的なスポンサーのために。

無から有を生む洗練された技術

映画は国債のように無から有を生むことができる。モンタージュという手法を使えば、関係のない場面を、撮影した時間の前後と関係なく適当につなぎ合わせる事によって、撮影内容と全く異なる意味を創出する事が可能となる。この手法・理論は「エイゼンシュタイン」という映画作家により1920年代に構築された。それ以降、映像制作の本筋は変わっていない。

セルゲイ・エイゼンシュタイン(※)はソ連時代の映画作家であり、ソ連が共産主義の総本山だったピーク期の人。映像製作の基本理論を確立した一人として敬意を払うべき人かも知れないが、立場的には国に雇われ国民や世界を共産主義に洗脳するPRマンだった、というのが本当の姿だと思う。

PRの肝は危機感の演出

エイゼンシュタインの作品「戦艦ポチョムキン(※)」には<オデッサの階段>という映画史的に極めて有名な場面がある。この場面をモチーフにした演出が、はるか後年のハリウッド作品「アンタッチャブル(※)」で行われた。幼子に危険が迫る。こういう危機的な演出はプロパガンダ映像の肝。今も紛争報道等で活用されている。

下記はモスフィルムが、なぜか無料で全編公開している「戦艦ポチョムキン」へのリンク。有名な<オデッサの階段>のシーンは47分56秒あたりから始まる。「アンタッチャブル」が取り入れたのは52分32秒から。

危機感の演出はビジネスでも有効。情報漏洩抑止のためのセキュリティ対策など、見えない危機に対処するため企業は先行投資を行っている。被害事例を掲載したPR資料も投資判断材料に使われる。

PRという単語は、Promotionという販売促進的な意味の省略形だったり、近年の米国の企業活動で使われているPublic Relations(一般社会との関係構築)だったりするようだが、実はプロパガンダ(propaganda)の省略形ではないのか?と私は疑っている。

疑いながら楽しむ

映画創成期以降、映像のかけ算によって、良くも悪くも人を欺く映像は世界にあふれている。欺く意図が0%であっても、映像はそれ自体が切り取りであり編集であるので真実性は薄い。この観点で、私は映像作品は虚構であり魔術であると考えている。それを飲み込んだ上で楽しむ。偏った考えだが、それも私の見る角度の一つ(全てではない)。

私は、映画作品を劇場で鑑賞する際、最後に延々と流れるクレジットの全てを見終わるまで席を立たない。クレジットに記載されている映像作家やスタッフ、関係者たちへの敬意の気持ちもあるし、隠された意図を知れたらという少し欲張った気持ちがあるためだ。

映像=虚構である事を熟知した映像作家・ライターたちが、スポンサーに気付かれないようなメッセージを、こっそり盛り込んでいる可能性があるかも知れない。その暗号を復号したい。

とにかく映画、映像は理屈抜きに面白い。裏にあるものを垣間見るともっともっと面白い。私は映画館というバーチャルリアリティ空間で、映画が直接描いている以外の何かをぼんやりと探すのが好き。

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