反出生主義とフェミニズム

Twitterのアカウントをいくつか持っている。そのうちの一つで反出生主義界隈のツイートが流れてくるのをよく見るのだが(これ関連のツイートをする人をフォローしているため)、フェミニストの方のツイートが流れてくることもかなりある。
ツイッターフェミニストの中にも過激な意見を言う人と穏健派の人がいるらしく、私はあまり詳しくないのでうまく区別できていない。だからここに書くことはもしかしたら間違っているかもしれないのでご容赦願いたい。
フェミニストの中には、「子どもを産むことを拒否する」という方が相当数いるようだ。現在の社会構造では、子どもを持つことで女性が社会に出て活躍できる機会が少なくなってしまう。妊娠出産の際の苦労も、男性側にはほとんどなく女性がほぼすべて負うことになるし、それなのに日本においては少子高齢化の影響で、「生めよ殖せよ」が国是となっている感もある。私事だがこの風潮は嫌いである。
そんな中で、一部女性たちの中に産むことを拒否したくなる気持ちが出てくるのは無理からぬことだし、自然な反応の一つだと思う。子どもを産んで専業主婦をしている女性に対して厳しい目を向ける人もいる。それは、女性でありながら、そういう「男性優位」の社会に加担していると見られているからだ。本人は加担しているつもりも、名誉男性でいるつもりもないのだろうが、結果として「女性は出産したら家庭に入る。子どもの世話は主体的に行い、家事もこなす」というバブル以前くらいの価値観を体現してしまっているのは確かだ。
そういう流れで、「産んでやるか!非出産推奨!」という意見を持つフェミニストの考え方は、反出生主義と同じ「子どもを持たない」という考え方と似るところがある。だからツイッターで両者がサジェストされることになるのだ。
私は女性であると同時に、性嫌悪的なメンタルを持っているので(初潮の時に落ち込んで学校を休んだり、中学生頃に胸が大きくなるのが嫌でうつ伏せ寝をしたり、大学時代に女性として体を求められることが苦痛で処女のまま初彼氏とスピード破局したりした経験あり)フェミニストのこういう主張に共感を持つから、興味深く読ませていただいている。
ただ、反出生主義とフェミニズムは似て非なるものどころか、全くことなるものである。それは、「誰の立場に立って子どもを持たないことを選択するのか」という部分である。反出生主義は子どもの立場に立って、生まれて苦痛な思いをする(幸福に満ちた人生が仮にあったとしても、一度も苦痛を感じないことはありえない。少しの苦痛で台無しになることもありうる)くらいなら子どもが可哀想なので、産まない。産まないことで、感じられたかもしれない幸せを奪うと言う反論があるが、そもそも生まれてこなければ意識がないのでそこに損得が発生することはない。フェミニズムの非出産は、産む能力を持つ女性が、自分の気持ちや社会的な立場を優先することで、産まない選択を取ると言うこと。すでに大人である女性自身のための選択であり、子どもの気持ちは度外視する(とはいえ、フェミニストの中にはフェミニストかつ反出生主義という方がいらっしゃるので両立している場合もある)。
私はどちらがすばらしいとか、どちらもすばらしくないとかそういうことをここで言いたいのではない。どの理由からどのような選択を取っても、それに文句を言われない社会になったらいいのにと思う。

先日、70代くらいの母親と4、50代くらいの娘という二人組のやりとりを聞く機会があった。母親の方は、30代の出産未経験の知人女性に対して「頑張らないと(産むのを)」という趣旨の発言をして、娘に「おせっかい。そんなことを言うものでない」と嗜められていた。私はここに大きな世代間ギャップがあるのだなと思った。しかしもっと田舎に行くと(私が住んでいるのは地方都市)、いや田舎でなくてもあるのかもしれないが、若い人でも出産経験がある人は、「女性は子どもを産むのが当たり前」と思っていて、平気で未婚未産の友人に出産を勧めたりする場合もある。私も3人子どもがいる知人に、「私は産んだとしても1人だと思っている。自分の能力的に」という話をしたら、いかに複数の子どもをもつのがよいことかを語られたことがある。笑って聞き流したが。

子どもを産む、産まないと言うのは極めてプライベートな領域だ。産まないと言う人に、産め産めいうのは野蛮だとすら私は思ってしまう。逆に、子どもを産む人に対して批判する人もいる。これもまた、行きすぎた発言だと思う。自分が苦しくてつらくて、子どもを持たないと決めている人が、産む人に対して怒りをぶつける。心情的には分かってしまうのだが、産む人を非難する権利はないし、生きづらい社会がつらいから子どもを産まないと言うのに、産むという生き方を批判することで生きづらい社会の片棒を担いでいやしないか。
人は自分以外の人になることはできない。自分以外の人生を体験することは不可能だ。だからさまざまな場面で無理解が発生するが、できるだけ「想像する」ことが必要だ。そして、投げるべきではないときにドッジボールをぶつけるべきではない。
そんなことを考えたので記しておきたかった。

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