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天国の畑/ビトウィーン・ザ・シーツ/一つの昏い王国/『迷宮遊覧飛行』

 4月5日。午前10時起床。3時ごろまで夜更かしをしていた。今後の収入と支出、将来の資産形成について考えはじめたら止まらなくなり、Excelで計画表をまとめてようやく落ち着いた。この先のことを考えると、ときどきいてもたってもいられないきもちになる。去年のいまごろは現在の生活を想像することもできなかったように、今から一年後、いや半年後のことも判然としない。あれこれ心配しても仕方のないことだとはわかっている。わかっていてなお、くよくよと詮なく思い悩む。
 録画していた昔のブラタモリを観ながら昨夜ののこりで朝餉を済ませ、軽い筋トレ、自室の掃除とルーティンをこなす。窓の外ではけざやかな赤紫色の木蓮が咲いている。曇り空の下でくっきりときわだつ花弁がやけに大きい。ポストを覗くと、今月号の「紙魚の手帖」が届いていた。新作の短篇が載っている。扉絵がとても素敵で、しばらく眺めてから写真を撮る。
 部屋を軽く片づけたあと、パッキングを開始した。明日から六日間、石垣島で過ごす予定だ。お供の本は、ちくま日本文学の『泉鏡花』と梨木果歩『椿宿の辺りに』。リストを見ながら、ノースフェイスのホットショットに荷物を詰めてゆく。飛行機に乗る旅は久しぶりで、液体の準備や重さの調整にやや手間取る。
 時間とお金に余裕ができたら、すこし長めの旅に出たいと思っていた。ここ数ヶ月ほど、アルバイトで忙しなくしていた。一日数時間ずつだが、掛け持ちで働いている。市民プールの受付及び監視。湖畔に建つ小さなホテルのバーテンダー。オンラインでの子ども文章教室の講師。三つの場所で、べつの人間のような顔をしてそこにいる。
 昨年の二月末に前の会社を退職してからちょうど一年、雇用される形の職には就いていなかった。リハビリのつもりでかんたんな仕事から、と始めたアルバイトだったが、それぞれに楽しくて、やはりそれぞれにしんどい。それでも家でひとりぼんやりしているときより、目に映る景色の種類は格段に増えた。日曜日の午後、天国の畑みたいにあかるく照りひかる水面を、のんびりかきわけて泳ぐひとびと。ねむる前にもう一杯、と注文されてつくったビトウィーン・ザ・シーツの琥珀いろ。画面のむこうから東京の桜の咲き具合をおしえてくれるこどものしたたらずな声。
 パッキングが終わり、昼食をたべようとしたところで文章教室関係の打ち合わせの時間になる。zoomでミーティングのあと、つづけざまに二回の授業。打ち合わせで頼まれた軽いライティングの仕事をこなし、気づけば夕食の時間になっている。母と二人でパエリアを食べ、今日最後の授業を行った。「あのとき○○しておけばよかったと思うことについて」という題で、解説案作成のため私も生徒と一緒に作文した。時間制限付きで文章を書くのは学生以来だ。お互いの作文を発表し、解説は次週にまわす。
 入浴後、自室で無印のシダーウッドのお香を焚き、King Gnuのライブを見ながらストレッチした。東京ドームライブのときの映像で、セットに廃ビルが何棟も建っていて豪勢だなと思う。一つの昏い王国という感じで、飽かずに眺めていられる。
 就寝前の読書は山尾悠子『迷宮遊覧飛行』。購入したのは数ヶ月前だが、もったいなくてゆっくり読み進めていた。まさに読む宝石である。堅牢かつ豪奢なひかりに瞳をとろかすようにして、静かにページをめくる。あまりに濃密な、あまりに美しい文章に息が続かず、途中で止めた。こういう読み方が正しいのかどうかわからないが、こういうふうにしか読めない本もめったにないな、とも思う。
 最後に、今日の授業で書いた私の作文を載せておく。生徒に読んでもらう文章なので意図的に明るい方向をめざした、ほんの5分程度の走り書きだが、故にいまの心境が存外そっくりあらわれているかもしれない。


 あのときああしておけばよかった、という所感をもつのは日常茶飯事である。お金をおろしておけばよかった、セールで服を買っておけばよかった。しかし人生の大きな選択において、真に「ああしておけばよかった」と感じることはない、と断言できる。
 人生における岐路は無数に存在する。私たちは後戻りできない、引き返せない場面で大きな選択を迫られる。私も大学を卒業したあとは進学か就職で迷い、院を卒業したあとは地元と東京を選べず苦しんだ。結婚、転職。ことあるごとに悩み抜き、あるときは自らの意志で、またあるときは状況に流されて選択を続けてきた。
 今でも当然、あのとき別の選択をしていたらどうだったろうと考えることは多々ある。別の会社に就職していたら。あのとき結婚していたら。可能性は無数にあり、しかし今現在存在している自分につながる道はたった一本だけだ。あのときああしておけばよかったと過去の自分を責めることは、今の自分自身を否定することにほかならない。どんなに曲がりくねっていたとしても、今こうして思考している自分という意識は、過去の蓄積により成っている。
 過去の選択を受け入れることは、自分自身をゆるすことだ。弱かった自分、間違っていた自分、迷いながらもここまで歩いてきた自分を「ああしておけばよかったのに」とはねつけることなく受け入れ、さらに無数の選択肢が連なる今後の人生を、前を向いてかろやかに渡ってゆきたい。

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