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絆という幻想を追いかけている


絆って、美しくて尊いものだと思いませんか?
(なんかこの問いかけキモいな)

友達、仲間、恋人、夫婦、親子、師弟……
関係性の名の数だけ、絆がある。

それを眺めるのが私は好きなのだと思う。


だがそれは幻想にすぎない。
存在し得ない幻想だからこそ尊いと思えている。

真の友情など虚構である。
人付き合いなんて多少の妥協と逃れられない必要性がなければ大抵成り立たない。
人はいくつもの面を持って生きていて、その全てを受け入れることなど土台無理なのだから。


かつて好きだった歌い手グループがあった。
私は過去の経験から、その中の1人だけを推すように心がけていた。
しかし気づけば、メンバーの間の絆に魅せられるようになっていた。
この先何年も一緒に活動してくれるものだと信じて疑わなかった。

私の推しはある日突然卒業した。
他のメンバーはそのまま活動を続けることになった。
卒業から数か月経った頃、私の推しは残ったメンバーを晒した。

永遠の絆は私が勝手に作り出した妄想だった。


なんだか“私の推し”が悪者であるかのような書き方になってしまったが、私は全くそんなことは思っていない。
その本人の抱えていたものだったり不満だったりは共感できるものばかりで、むしろそれを実行に移したその度胸に感嘆したほどだ。

ただ、私の見ていた絆は多かれ少なかれ取り繕われたものだったのだということを思い知ってショックを受けたというだけの話だ。
もっと抽象的に言うならば、彼らも私と同じ人間だったのだということをその時に思い出したのだ。


ところで、私は青春群像劇的な創作物が好きだ。

若く未熟な少年少女たちが少しずつ距離を縮め、時に衝突と和解を経て、時に自らの過去や置かれた環境と向き合い、互いの心の柔いところに触れあって、一つの目標に向かって突き進んだり自分のアイデンティティを見つけ出したりしていく。

彼らの姿こそ、私の理想とする絆の在り方だ。


だが残酷なことに、今の話はあくまで創作物の中のものだ。

これと現実を混同したのがあの時の私だった。


いや、現実にだって、注意深く探せばそんな美しい絆もあるのかもしれない。
けれど少なくとも、人生で出会う全ての人とそんな絆を紡げるわけではないだろう。

他人と衝突するのは怖い。
自分の心をさらけ出すのも、怖い。
人の心に触れるのはもっと怖い。


けれど、だからこそ、絆は美しく尊い。

だからこそ、私はまた絆という幻想を追いかけている。