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季節の博物誌 2 迎え火

 旧盆の時期の夕暮れ時になると、あちこちの家の玄関先で迎え火が焚かれる。この時期に家に帰ってくると言われる亡くなった人の魂を迎えるための風習である。住宅事情などから今では行わなくなった家も多いだろう。
 故人が本当にその火を目印にあの世から帰ると信じるには現代人はあまりにも素朴さを失っている。しかし夕闇の地面にゆらゆらと揺れている小さな炎を見ていると、思いは自然と亡くなった人へと向かっていく。炎の色彩と呼吸するような揺らめきには、人の心を過去や失われたものに向かわせる力があるのかもしれない。
 仏教では、亡くなった人を供養するために、通夜。葬儀。四十九日。初彼岸。そして初盆という順番で行事が続いていく。これらに今でも何かの意義を見出すとしたら、故人を悼むことで生きている者達がその死を納得し、日常の節目節目でその不在を受け入れていく、その過程として必要なセレモニーということになるのだろう。それでは私達が悼んだり、惜しんだりするのは、故人の何に対してなのか。
 亡くなった人の遺影を見つめていると、日によってその表情が笑って見えたり、悲しそうに見えたりする。それは私達の脳裏に故人の様々な表情の記憶が刻まれていて、遺影というスクリーンにその映像が投影されるからであろう。故人の面影を偲ぶ時、その「面影」とは一枚の写真に定着されて動かない顔ではない。移り変わる表情や仕草、しゃべる声やそのニュアンス、醸し出す雰囲気、たたずまいのことである。それは長い年月をかけて故人と過ごした者達の心に蓄積されたイメージだ。言い換えれば、私達が悼むものとは、私達が故人とともに過ごした時間のことなのであろう。迎え火の揺らめきに引かれるのは、そこに戻らない時間が映るような気がするからかもしれない。
 

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