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恋じゃなくても良さそうなものだけど(『すずめの戸締まり』を観ました)

※個人の感想です
※ 自分は『すずめ』と合わない部分があった、という旨の文です。ネガティブな意見が苦手な方はブラウザバックを。

はじめに(合わなさそうだったら閉じてね)

 『すずめの戸締まり』という映画は好きだし、すずめも草太も芹澤も環もダイジンも、愛着のわくキャラクター設計だった。他の何を差し置いてもあなたと過ごす一瞬に勝るものはない、という青く眩しいすずめのまなざしも好ましい。

 でもひとつだけ引っかかる描写があった。一連の出来事から数ヶ月経ち、二人が出会った場所で再開した様子が描かれたその後。エンドロールの始まりだ。エンドロールの開始と同時に、RADWIMPSの「カナタハルカ」が流れ始める。別にそれはいい。わたしが良し悪しを語るのも変な話だが、「カナタハルカ」はいい曲だと思う。でも、エンドロールの始まりと同時に聴こえてきた言葉で、「ああ、ここに関しては合わないかも……」と予感した。


「恋の」

 いや、曲をすべて聴けばそれが早とちりだと分かる。恋って言葉こそ存在しているけど、主体が「君」を思う気持ちは既存の言葉の意味には当てはまらない、「君」と今を生きたいという思いこそが主体から「君」への思いとして一番大きいところなんだよ、みたいなメッセージとしてわたしは「カナタハルカ」受け取った。それに、すずめが草太を思う気持ちはおそらく「恋」だろうから、恋の歌であることに納得はいく。

 でも、草太からすずめは? わたしは違うと思う。常世から戻ってきた草太が芹澤に驚いていたように、草太はなんというか、世間を生きる人と自分との間に濃い線を引いているように感じる。閉じ師としての生活は普通ではない。後ろ戸が開いたらいつであれ現地に向かわなければならないから、交友関係にだって支障が出るだろう。そればかりか、いつかは要石として人の世から離れる可能性もある。だったら人とはあまり親交を深めないようにしよう、と考えたって不思議ではない。そういう思考回路なら、草太としては自分を救うために芹澤も来ていたことに驚きもするだろう。芹澤より干渉の強引さ・吊り橋効果があったとはいえ、すずめに対しての感情も芹澤に対する驚きと同じ枠にあると思う(そも感情を分ける必要なんてないのは"そう"なんだけど)。自分を大切に思ってくれたことへの感謝というか……感謝の域を出ていないというか……。

 だから、映画が終わって真っ白なスクリーンに流れる曲の第一声が「恋の〜」で始まることにわたしは憤っている。恋だけの話じゃないのになあ……! いやそれは他の曲が担っているからいいって? 劇中では流れずにアルバムにしかない曲もあるけど……。これはあくまですずめから草太に向けた想いの曲だから、草太がどう思っているかは関係ないって? そうだけど読み違えが発生してしまう気がする。ウーン……。


恋じゃなくても良さそうだけど

 仕方ないけど、男女の関係を描くときに恋愛の面が強くなってしまうことが少しかなしい。何千何万年先の人類がどうであろうと、今を君と生きていたい、それで十分だと思うのだけれど。その気持ちをなぜ外野が恋と名づけてしまうのだろうか。とまで考えたけど、RADはどう考えても部外者じゃなく製作サイドだ。『君の名は。』から監督と共に歩んできて、部外者な訳がない。つまり草太→すずめも恋に値すると捉えられても良いと考えているからこその「カナタハルカ」の出だしなのかな、少し悲しくなってしまったわたしであった。


こういう文章を、いわゆる"お気持ち"と呼ぶのだろう。。

※こう書いておいてなんだけど、恋愛ものは嫌いじゃないです。好きな作品も沢山あります。ただ今回は、映画の内容と歌がちょっと合ってないように感じてしまったな〜……という感想でした。おわり。

曲はいい曲なので聴いてください

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