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輪郭をなぞる(『すずめの戸締まり』を観ました)

※個人の感想です
※考察ではありません

※『すずめ』は作品を指し、『』なしのすずめは劇中人物の岩戸鈴芽を指します

はじめに

 わたしが映画を観に行くと、家の人は相槌として「面白かった?」といつも聞いてくれるけど、『すずめの戸締まり』は面白い・面白くないで語るべきではないな、と強く思った。と同時に「面白い」という言葉は感情のどこまでを指すものなのか、ともどかしくも思った。funnyなのか、interestingなのか、はたまた感情が揺さぶられればすべて「面白い」なのか。

 題材が繊細なものであるがゆえに、言葉の範囲が広い「面白い」で表すことを避けたい自分がいるのも確かだ。自分の文章が誰かに読まれることを考慮するならば、範囲の広い言葉で言い表してしまうことは危険だ。わたし自身は「面白い」をfunnyの意でもinterestingの意でも使うけれど、そこを読み違えてしまったら悲しいすれ違いが起こってしまう。からかいの意味を含む「面白い」ではないと表明する意図もあって、容易に「面白い」と口にすることはできないな、と思った。


語ること

 でもこの題材――震災について繊細な話題だからと口を噤むのも違う気がする。 震災で多くの命が失われた。多くの景色が消えた。戻らないものがたくさんあるし、同時に傷も深く残る。それでもわたしたちは、そういった歴史の先を生きていかなければならない。そこに生きた人がいたことを、生きられなかった人がいたことを語り継いでいく必要がある。指示語が多くて読みづらいな……。

 語ってくれ、と全ての人に言うことはできない。今なお傷を抱える人にそれを願うのは、傷口を抉る行為だからだ。苦しかったこと・悲しかったことを素直に受け止めて言葉にしていくのには時間が要る(劇中におけるすずめのように)。すずめや実際に被災した方には遠く及ばないけれど、わたしも過去にあったつらい出来事を「あれはつらいものだったのだ」と認識できるようになるまで、十年前後の時間を要した。

 だからこそ、閉じ師が必要なのだと思う。当事者が語れなかったことに思いを馳せる、閉じ師のような人間が。

 劇中においては、閉じ師になれるかどうかは素質の有無が関係している(2022「すずめの戸締まり」製作委員会『新海誠本2』p.6)けれど、現実世界では素質は要らない。そも現実世界には閉じ師という職業など存在していないのは承知しているけれど、違う。そういう話をしたいのではない。語ることに素質や資格なんてあってたまるか、と言いたいのだ。

 もちろん偽りの情報を語ってしまうことは危険だ。2016年の熊本地震の際には、動物園からライオンが脱走したというデマが広がり、ちょっとした騒ぎになった。偽りの情報はノイズになり、正しい情報が本当に届くべき人へ届くことを阻害してしまう。そのせいで、偽りの情報がなければ本来は助けられたかもしれない命が助からなかった、なんてことも起こりうる。それでも、ひとりひとりの善性を信じた上で、語ることに素質や資格は不要だとわたしは思う。

信仰を失った神

 少し話は変わるけれど、人間からの信仰を失った神は力を失っていく、という理論を見聞きしたことが一度はあるだろう。『すずめ』においても、すずめの言葉ひとつで神であるダイジンの身体の肉づきが変化する。

 『新海誠本2』では、「要石には地震を封じる役目があるが、彼らだけではその役を果たすことは出来ないため、人間とともに「産土」と呼ばれる土地の神様を鎮めなければならない」(同書p.8意訳)と記されている。産土とは、古語で「その人の生まれた場所・生地」や「生まれた土地の守り神」を指す言葉だ。土地の神・産土は信仰を失う力を失うだけではなく、荒ぶる神となってしまう。(平常時はミミズとミミズに繋がる金の糸の力が拮抗してるものの、信仰が失われていくと金の糸の力が弱まり、ミミズ本体が現世へ出てることが可能になってしまうのではないか、とわたしは考えている。でもこの文章の主題からは外れてしまうので、ここでは割愛する。)

 また、産土の意味のひとつである「その人の生まれた場所・生地」を拡大解釈するならば、これは自分自身のルーツと言い換えることもできるだろう。私たちは一人一人が己の過去の上に生きている。けれど記憶力には限界があるため、意識的に思い出そうとしなければ、人間は過去を容易く忘れてしまえる。思い出されない記憶は、数多ある記憶の中で色を失っていく。

 過去を忘れてしまう人もいるし、語れない状況にある人もいるだろう。だから当事者であれ当事者でなかれ、(当事者がいると認識し、配慮をもちろんした上で)過度に恐れることなく、語ってでいくことが大切なんだろうな、とわたしは『すずめ』を観て考えた。

 いや、誰かに語る必要はないのかもしれない。真に大切なのは、ひとりひとりが考えることではないだろうか。失われたものがあること。何かが失われたことで生じた傷があること。それぞれが思いを馳せれば、産土は、過去は無かったことにはならない、と思う。


『すずめ』を観たわたしたちにできること

 失われた人や物に対して私たちができることは、何だろうか。人であれば墓参り、物であれば復元することだろうか。何をするにしても、失われたものと全く同じものを蘇らせることは不可能だ。

 だからこそわたしたちは、思いを馳せて、失われたものの輪郭をなぞり続けなければならないのだろう。ある時は、大切だったものを忘れないために。ある時は、同じ轍を踏まないために。現実に閉じ師はいないけれど、閉じ師のように思いを馳せることなら出来るのだから。

おわりです。


参考

・新海誠『すずめの戸締まり』2022
・2022「すずめの戸締まり」製作委員会『新海誠本2』2022
・「熊本日日新聞」〈https://kumanichi.com/articles/604283〉2023/01/03参照




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