見出し画像

シャッター職人として最後に取り組んだ現場

シャッター屋家業から手を引いて早、一年の歳月が過ぎようとしている。30年間に及ぶ鋼製建具屋の間に施工したシャッター、ドアの数は、15000は下らない。そしてその内容は多岐にわたり、30センチ角の小さな点検口と呼ばれる鋼製ドアから、果てはW15メートル×H5メートル以上の特大シャッターまで数々の製品の施工に当たった。

総平米75平方メートル以上のシャッターの重量はざっと換算して中型トラック一台分、凡そ4~5トンの総重量である。これをほとんどの場合移動式クレーンや、レッカーの手を借りずに(というかこれら重機を使用できる条件の現場が極めて少ない)ほぼ電動チェンブロックと人力で取り付けを完了させるのがシャッター屋(重量班)の仕事である。無論シャッター関連の商品構成の大半を占めるのは一般家庭のガレージなどに取り付けられる防犯目的の軽量シャッターや、今では雨戸よりも断然多く使われる窓シャッターなどだが、その一方ジェット機の格納庫の前に取り付ける見上げるほどの高さの鉄扉、学校の教室の間仕切りに使用されるスクールパーティションなども大きく括ればシャッター屋の仕事である。

シャッター屋は家庭用のシャッターを除き、普通2~3人でJVと呼ばれるチームを組み作業に当たるのだが現場の進捗状況やら、工事士の人員確保の問題により、本来複数でやるべきはずの仕事を一人でこなさなければならない現場が往々にしてある。

私が去年の今頃かもう少し前の3~5月頃に入った大型物件現場も正しくそんな理由で、本来なら一人工事は有り得ない内容の、約70台近いシャッターのはぼ8割以上の取付を一人でこなさねばならない状況に追いやられた。そしてそれが最終的な原因で肩の鍵盤を断裂させてしまい、再建手術に伴う2か月間の入院とその後の半年間のリハビリ生活を余儀なくされたのだった。入院療養も最初は偏にシャッター屋としての復活を目指しての行動に違いなかったが、実際には元のようには仕事ができない体に成り果てしまった。

最後の現場がどこだったか、ほぼ身バレ覚悟で述べれば、それは財閥系の大手ゼネコンが施工に当たった、麒麟麦酒名古屋工場の製造ラインの増築に伴う大規模改修工事の現場であった。一期工事から三期工事まで述べ10000人工(一人の一日の仕事を一人工に換算して工事日数と掛け合わせた数字)以上の人員が導入された工事に約3か月間携わった訳だが自分以外のほとんどの他職の職人が10人15人体制で仕事を進めたのに対して、一人で工事を続けた私は現場監督から毎日のように工事士の増員の要請を受け、定例の工事士会議で他職の職長と呼ばれるリーダーからの非難も甘んじて受けなければならなかった。仕事の内容が違うので一概には言えないがつまり1対10で作業を進め工期を遅らせないようにする事が私に課せられた最大の責務という立場だったのである。

板金屋の親方は半分そんな私の身の上に同情してくれ、私の仕事を最優先に工程を組んでくれたのだが、鉄骨鳶の番頭は、ことあるごとに文句を並べ最後まで歩み寄ることはなかった。

本音を言えば私が弱音を吐き、会社に頭を下げて応援を依頼すれば会社もメーカーも何とかせざるをえない状況に追い込まれ、私自身も楽が出来たのだが、半分意地で仕事に対する矜持というか、変なプライドが邪魔をしてやせ我慢をつづけた。

そしてその結果シャッター屋稼業を廃業して、60を前にしてバイトで生計を立てざるを得ない状況に自分自身を追いやった。それでも自我を捨て会社に頭を下げれば何らかの仕事は用意されたことだろうし、一緒に会社を立ち上げた相方は、そこそこの給料を保証するから会社に残ってくれとまで言ってくれたのだった。

だが前にも述べたと思うのだが、この時すでにシャッターに対する未練も気概も全くなくなったということが本音として言い切れる。色々なしがらみで昔は普通に感じた仕事を成し終えた後の達成感や満足を、全く得られなくなってしまったのが一因かもしれない。それでも長く続けることはそれなりに色々ある訳で最優秀工事賞というのも二度ほど頂き、一番稼いだ時期は三桁の収入を得られる月がコンスタントにあったのだが、先月のバイト掛け持ちの総収入は恥ずかしながら20万に満たない額であった。住宅ローンは完済したとは言え、微々たる額の年金を受給できるようになるまでにはまだ5年の歳月を待たねばならない。考えれば考えるほど不安は増すばかりだが、なるようにしかならないのが現実だとでも割り切るしかないのだろうか?仕事以外のプライベートでもいろいろな悩みを抱える今、年甲斐もなく人の話に素直に反応できない自分がいる。自分で蒔いた種、自分で刈り取るしか術はないのだが。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?