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なもないみせ

 私が、その店に行こうと思ったきっかけは、メディア情報に惑わされたわけではなく、誰かから聞いた微かな記憶が甦ったからだ。

 本当の事を言えば、その店のある町を訪れたことは未だない。たまたま仕事の都合でその店の二駅先にあった会社へ出向き、一仕事終えた帰り道、ふと何処かで夕食を済ませてしまおうと思いたった。その後しばらくして家のある方角に向かって走る快速電車に乗り込んだ時、向かいの出入り口の上に貼られた路線図に、店のある町の駅名が載っていた。そこに書かれていたある一つの駅名、つまりその駅の名が私の記憶を呼び起こしたのだ。

 そこは通勤快速が止まる駅ではあったが、とりたててこれといった特徴もなく、途中下車する魅力に駆られる駅ではなかった。初めて訪れたその駅は、駅舎もそしてその正面に広がるロータリーも、時代に取り残されたかのような古めかしい佇まいを呈していた。

 その店のあるべき場所は、飲食店が建ち並ぶ駅裏の、雑居ビルに挟まれた袋小路の突き当りに立つという曖昧な情報が記憶の片隅にあったのだが、店の屋号まではどうしても思い出せなかった。

 ラーメン屋、夜だけの営業、駅裏の奥まった場所、思い付く限りの記憶を結び付け、辺りをだらだらと探し回ったが、なかなかお目当ての店にはたどり着けなかった。

 三十分ほど歩いた後、結局それほどの思い入れがあったわけでもなく、いつまでも探す時間が無駄に感じ始めた私が、表通りに先ほど見かけたファミレスで妥協しようと思った矢先、振り向くと何の変哲もない安っぽいアルミの引き違い戸が突然目に飛び込んできた。あたかもそれは、まるで店のほうが私の事を手招きしているかのようだった。

 一瞥した限りでは、果たして店なのか民家なのか見分けのつかない佇まいを訝しく思ったが、すりガラス越しの店内が、結露か何かで曇っているのが目に入った時、厨房の熱がそうさせているのだ、と確信がいった。

 本当にその店は、例えば10秒ほど店構えを凝視して目をつぶったとして、今目に焼き付けたはずの情景が思い出せないような、印象といえるものがまるでない不思議な感じの店だった。

 店の中から漏れ聞こえる音は、半開きの蛇口から滴る水の音と規則正しいリズムを刻む包丁の奏でる音だけだった。時計の針はすでに8時を回っていたのだが、他の客の気配は全く感じられなかった。そして平日とはいえこの時間にガラガラな店の経営がどうして成り立つのだろうかなどといういらぬおせっかいが脳裏をかすめたのだった。

 ここ迄来て今更後戻りする気にもなれず、諦めの心境で引き戸を開けた私の目にまず飛び込んだのは、見るからに貧相な初老の店主の後ろ姿だった。

 カウンターだけの10人も客が入れば満席の店の一番端に腰を下ろした際、店主はといえば私の方をふりむきもせず、壁に張られたメニューを顎でしゃくった。

 そこには煙草の脂でくすぶった、ラーメン大、小と書かれた2枚の品書きが貼られたのみだった。またよく見るとラーメン小の品書きの横には、後で書き足したのか太さの違うマジックで書かれた「ライス有り〼」という文字が取ってつけたように書き加えられていた。

 振り向いて愛想の一つも浮かべそうにもない店主の事など気にせず、ここは黙って食うだけ食って、早々に立ち去ろうと考えを改めた私は、多少声を荒げ、「ラーメン大!」と注文した。

 思った通り店主は、注文の品を黙々と造り始めた。ここまで愛想がないのも物珍しいなどと余計なことを考えるうち、店主の年齢を感じさせる指先がスープのなかにどっぷりとつかった、何の変哲もないラーメンが運ばれてきた。

 小柄な店主がうつむき加減で運んできたため、彼の表情の一部始終を見ることは出来なかったが一瞬垣間見せた横顔には生気というものが全く感じられなかった。

 一瞥した時のラーメンの印象は、どこにでもある、ごく普通の醤油ベースのようだった。折角苦労して探し当てたのに、期待はずれに終わりそうと思われたラーメンのスープをまず一口、口にすると、これが意外や意外今まで出くわしたことがない、言葉では言い表せない不思議な味がした。

 初めて口にする出汁の味に違いなかった。豚骨でもなければ魚介系でもない、、どちらかと言えば鶏がらスープにに近いのか? などと考えながら食べ進めると、あっという間に丼が空になった。時間を忘れて食べ進み、気がつけば食べ干していたというのが、一番的を得た感想だったのかもしれない。

 完食後、そそくさと勘定を済ませた私は、スープの出汁が何なのかやはりどうしても気にかかり店主の顔色を伺いながら聞いてみた。

「無理にとは言わないけれど、一体何の出汁で摂ったスープなのか教えてくれない?」無視を決め込んで相手にしない雰囲気をひしひしと感じ、半ばあきらめかけた私が店を後にしようとすると、背後で店主のくぐもった声がした。

「教えてやるよ、ケケケッ…… 出汁か?出汁はヒトガラ。粉骨砕身のヒトガラスープとでも呼べばいいか?」

 次の瞬間、店主が初めて見せた能面のような顔の目元が、異様な光を放ったのを私は見逃さなかった。

 逃げるようにして安普請のアルミの引き戸を開けた私の眼前には、来た時とは違う荒涼とした,言うなれば三途の川のような景色が広がっていた。 

                完


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