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声のアルバムの原点② ~地方の病室の風景

私の父が入院していたのは地方の総合病院ですが、倒れた時から何度か部屋の移動がありました。
気管切開している部分に痰がつまると息が止まってしまうので初期は24時間誰かがついており、それこそ夜勤のように泊まり込む日も。今こういうことができるのかは分かりませんが、簡易ベッドが設置できない大部屋の時は、畳を一畳分持ち込んでそこで寝たこともありました。

基本的に個室か2人部屋でしたが、一時期4人部屋の時があり、その時同室だったご夫婦がやけに記憶に残っています。おそらく90近いおじいさんが入院、認知症も少し入っていたのでしょう、私はよく看護婦さんと間違えられて横を通るたびに「点滴を抜いてくれ」と言われました。そして数日に一回、奥さんであるおばあさんが来られるのですが、腰もかなり曲がっていてとても運転できる感じではない。私の田舎は車がないと生活できない、一家に一台ではなく一人一台のような地域です。公共交通と言っても住んでる場所によっては駅までの距離がとてつもなく遠く(もちろんバス停までも遠く本数もない)、この大荷物を持ってどうやってやってきてるんだろう?と不思議に思っていました。のちのち聞いた話では、家からタクシーを使って来ているらしいと。その方の家から病院までは片道1万はかかるだろう距離です。自治体の補助が少しはあったかもしれませんが、一体タクシー代に毎月いくらかかっているのだ・・。これが地域の交通問題、今話題のライドシェアやラストワンマイル問題に関心を持つきっかけとなりました(不思議なもので起業前に在籍した通信会社で、約2年ここに関わる仕事をしました)。大部屋ではこういった様々な家庭の事情や、老々介護などの現状を知ることもできました。

脳神経科というのは、基本的に脳をやられている方が入院されているので、言語障害と身体の麻痺が多くあります。父は全身麻痺状態で言葉も発せなかったですが、調子が良い時は「わかったら目をつむって」「指動かして」という感じでコンタクトを取っていました。・・・でも、あれが本当に伝わっていたのかはわからない。私達は「わかった」と思い込んでいるけど、これは受け取る側の思い込み(エゴ)かもしれない。父の頭の中は、本当はどんな風だったんだろう。意思表示ができないというのは、本人も辛かっただろうなと思います。

そして、個室になった時、いろんな会話が繰り広げられました。闘病生活が長引くにつれて、色々な不協和音がかたちを変えて現れる。これは懺悔でもありますが、父の横で、恐らく本人は聞きたくもない会話がたくさんされたと思います。何も話さないから、つい誰もいないような感覚になって話してしまっていた。だけど、父はそれをずっと聞いていたんじゃないだろうか。病院で深夜に一度、「ごめんね」と泣いたことがありました。どこまでわかっていたのかは、今もわからないけれど。

親、兄弟、子、親族、友人。
いろんな人の立場や状況によって物の見方が変わり、一度こんがらがると修復不可能になることもある。患者本人だけでなく支える家族のケアの必要性を感じたのはここからです。そして、父には悪いことをしたけれど、仕事の帰りにアイスクリームやお菓子を持って来て、ただ私の愚痴を聞いてくれた従姉妹との対話の時間が、私にはとても救いになったのでした。


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