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命を見つめる②

「優性思想」について


命と運命の問題について考える時にどうしても外せないのが「優性思想」についてである。

筆者自身が障害者であり、生まれた時代がずれていればその対象にされたことは疑う余地がない。たまたま、生まれた時代と国が違ったという運命に救われただけなのである。ナチス時代のドイツで行われた身体障害者、精神障害者の強制的安楽死計画(T4)の映像に記録された障害者の方々の姿を見ると 自分自身のことのように感じてしまうのである。
もしかしたら、自分自身がガス室に送られたかもしれないのである。ハンセン病の療養所における強制的不妊手術も同じことである。死後の献体や解剖についても他人ごとのようには思えない。口には出せないが、医療に関しては耐え難い思い出がある。療育施設の中で自分が動物実験の動物として扱われた気がして消えてしまいたかった。忘れることのできない体験が今も頭からきえない。悲しい出来事である。

また、現代のわが国においても多くの女性障害者の方々が旧優性保護法の下で権力によって不妊手術を強要された事実は見逃すことができない。
また、コロナ禍においても命の選別がされそうになり、自分自身も含めて多くの障害者が見捨てられるのではないか、と心配していた。
改めて命に優劣があってはならないし、選ばれ、選別される生命があってはならないのである。

治療を諦めてください


筆者自身が見捨てられることになったら、諦めがつくだろうか。
もしも我が子に障害があったら、あなたのお子さんが見捨てられる側になったとしたら、許すことができるだろうか?

「障害があるから治療を諦めてください、健常者の方が優先です、仕方がありません」と自分や身内の人たちが 言われたらあなたは納得できるだろうか ?
人類は、過去にこれほどの苦しみがあってもどこかで優性思想を捨てきれていない、と思っているのは筆者だけだろうか。

悲しい歴史を振り返る度にいつも思うことがある。
それは、私たち人間には、誰でも生まれながらにして、自分の選択で人生を歩み、自分なりの幸福を追求する権利があるということである。しかし、現実は、そうはなってはいない。みんなが厳しい状況の中で懸命に生きている。
自分自身が不幸で運に見放されていると感じている人たちも多いだろう。
しかし、ちょっとしたことで人生が変わることもある。
そのひとつが自分以外の誰かのことを気にかけるということである。
自分以外の誰かの状況や気持ちを思いやることで周りに優しくなれるものである。すると不思議なことに少し づつではあるが、小さな幸せや楽しみがやってくるものである。物事に対する感じ方も変化してくる。感性が研ぎ澄まされると新たな気づきが生まれるものである。また、小さな思いやりが人間に対する優劣や偏見、差別等を軽減し、新たな気づきを筆者や読者のみなさんの人生にもたらしてくれると思う今日この頃である。

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