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金魚すくい屋でずっと呆けていた

ひたすら主観の話をする。
何が正しいとか間違っているかではなくただただ私の感情の話だ。

私は小さい頃、ペットショップやふれあい動物園、肉食、金魚すくいなんかの、人間が残酷な瞬間が苦手だった。
人間が他の種族の命に優劣を付けてエンターテイメントに興じる様は、どうしたって身の毛がよだって恐ろしかった。
しかし大人になるにつれて段々とその恐怖がわからなくなってきたというか、今はそれを恐ろしく感じることの方が傲慢なような気がしている。

人間が無意識に残酷であることは、むしろ生き物としてのヒトの自然な姿のように感じて、それを「むごい」とか「残忍」だとか言う方が、人間に対してむごいことを言っているのではないか、そんな気持ちだ。

狭くて糞便で汚れたぬるい水槽の中で、長時間群れの中で何度も何度も追われ衰弱しきってボロボロになった、同類の死骸の上を泳ぐ金魚達に、「かわいそうだ」と感情移入するのはすごく簡単だ。社会的に弱い立場の人であれば、もしかしたら自分と重ねて怒りすらするだろう。

ただ、実際に金魚が何を感じているのか、我々が完全に理解できることは一生ない。
私は人間であって金魚ではないからだ。

もしかしたらそう結論付けることで何か大きな倫理的価値観から逃げているのかもしれないが、自分達が思っているより金魚の世界がシンプルである可能性は多大にある。

そうだとしたら、「誰かを楽しませるために」「文化を継承するために」「どうにもならないものをなんとかバランス良く繋ぐために」または「日銭のために」努力している、ペットショップで働いたり、肉を売ったり食べたりする人間を、とやかく言うのは暴力的ではなかろうか。

ただの日記のつもりなので特に結論は無いが、今日、金魚すくい屋でずっと呆けていた。

ヒレや目が潰れて、疲れ果てて眠りながら自らの糞便の中を泳いでいる金魚達を、可哀想だと思いながら、どれが一番個性的な柄だろうかなんて選り好みながら掬っている己の、
一貫性のない残酷さを、どこか心地良いと感じて、しばらく浸ってしまったからだ。

ビタミン剤の溶けた汚いプールを泳ぐ弱って病んだ金魚の群れは、心を奪われるほど美しかった。

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