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十人十色の多様性

人間は考える葦である

ブレ―ズ・パスカル(フランスの哲学者)

 という言葉はあるが、君達に質問しよう。

君達は本当に考えて生きているのか?

 多分君達は『はい』とか『いいえ』とか答えるだろう。然し、人類は今そんな人類にとって大事な思考力を捨てようとしている。そう、人間が〈人間〉では無くなってしまうのだ。
 では、
1.何故そうなってしまった原因は何なのか
2.歴史的観点で見るとどうなのか
3.思考力の無い世界はどんな感じなのか
4.これからの人類に大事なものは何か
5.そもそも何故こんな話題を引き出したのか

この5つの項目で、人類が考える葦をやめてしまったのかに触れていこう。


1.何故そうなってしまった原因は何なのか

では、人類の思考力が無くなってしまった原因を自分なりに4つ挙げてみました。

1.差別というものが生まれてしまったから

 人間社会に於いて、差別というものは切り離したくても切り離せないものである。何故ならば、秩序の構築にとって、権力者とは違う価値観を持つ異端者を排除しなければならないからだ。異端者を排除しないと、いずれは権力が崩壊し、自身の地位を失ってしまうからである。そして、君達は差別的で偏見の強い人は頭が悪いのは周知の事実だろう。
 では、それを踏まえて言おう、偏見の強い人間という者の割合が多くなり過ぎた。それが現実世界だけでなくネット上の世界でもだ。
 では何故そんな偏見の強い人間が多くなってしまったのか? 
それは、〈どんなに知識を入れなくても生活出来るようになったから〉〈社会を構築する中で『こうするべきだ』『ああするべきだ』と完全秩序を完成しようとするから〉〈気に入らないものを排除しようとする意識があるから〉〈『これが普通だ』と断定してしまうから〉である。そうする事によって、普通から逸脱した者を不都合なものとして排除しようとする。そうしたものが積み重なって差別というものが生まれた。
 要は〈普通・常識・一般的〉というものを追求し過ぎているのである。
 おっと、左翼側の人間も言い逃れは出来ない。君達は「差別はいけないもの」と言いながら、自分達にとって普通じゃないものや気に入らないものは排除しようとしているじゃないか。何故君達がそんな結論に至ってしまうのは、君達も右翼側の人間と同様に「自分達だけの世界じゃなきゃ気が済まない。だから自分達以外の人間は要らない」なんて言う価値観じゃないか。そんな君達が正義の人間面は烏滸がましいにも程があるのだよ。
 何かを無鉄砲に排除しようとしている時点で、それは〈差別〉なんだ。

2.規制ばかりの世の中になったから

 当然君達はこの項目を見て批判をするかもしれない。だがしかし、全ての物事が規制されてしまったら、行き着く先は『ディストピア』だ。ディストピア世界になってしまえば、人類はルールという桎梏に縛られ、自由を極限に制限され、何もできない人類は無個性となり、創造性も個性も無いつまらない世界となり、発展が滞ってしまう。そして、発展が止まってしまった世界に活力は無くなり、軈てディストピアに抗おうとする者も人道的な対抗手段を封じられ、溜まったストレスが爆発し、犯罪が横行するようになる。そうなってしまえば、生真面目な人や優しい人が損をする世界となる。
 君達はお気付きであろう。それが現在の世界である。真面目に生きていた人や優しい人が損をしている。それ故に悪徳に塗れた暗黒の世界と化す。そして、忽ち人類は破滅の道へと辿る。此れは創作でも何度でも訴えられて来たものだ。ジョージ・オーウェル氏の『一九八四年』が典型的なものだ。然し、それを聞かずに人類は破滅に進もうとする。まさに賢者の声を聞かぬ愚者。この素晴らしかった嘗ての地球の中の世界は愚者による愚者の為の愚者の世界に堕落してしまったのだ。規制ばかりの世界では生き残る為の手段を考えなくても良いから、深く考える人が減る。

3.キレやすく、誰かを見下し、執着心も強く、謝ろうとしない人間が増えたから

 これはまあ――察しの通りですよね。嫌いな事についてずっとネチネチ言う人間なんて誰も好まないよね。そんな人間様方も絶賛大量生産中なんですよね。じゃあ何でこんな人間が増えたか、それは学歴関係無く教育です。たとえ裕福であったり、東大を卒業した人でも謝ろうとしない人間は反省しないので、自分を過大評価し、自分よりも下だと思った人やを見下したり、気に入らないものを執着して叩くようになり、そして、初めて反論されたら、そのプライドをズタボロにされたと怒り狂い、バーサーカーのように暴れます。たとえ相手が真っ当な人間でもね。そんな人達が多くなった所為でどうなってしまったのか、察しの良い君達なら分かる筈だ。
 ――そうだね、規制ばかりの世界が生まれるんだ。何故そんな人達が規制ばかりの世界を作るのか、それは〈自分達が優位に立ちたい〉〈気に入らないものを徹底的に排除したい〉〈他の人達が苦しんでいても正直どうでも良い〉なんていう信条だからだ。政治家達の「この世を良くしたい」も活動家達の「この世を良い方向に変えたい」という言葉は自分を正当化する為の仮面であり、本当は自分にとって気に食わないものを排除したいだけだ。
どんな良い言葉を吐いても、本心は気に入らないものを排除したいが為に言葉狩りや行動制限をして人々を操ろうとする。所謂カバートアグレッションだ。まあカバートアグレッションだけではない。『多様性』『愛国心』というものを盾として私利私欲の為に人を操る人間もいる。然し、そんな人達だけでは無く、本心までもが『人々を救いたい』という人も居る。然し、そんな人達は彼らによって社会的に抹殺されたり、言いたい事を塞がれるんだ。全く――難しい世の中になったもんだね。

4.盲目的に政治思想に囚われているから

 そもそも、人々は盲目的に右翼左翼に囚われ過ぎている。何十億人もいるなら、違う思想があっても良いじゃないか。然し、人々は自分の思想を右翼左翼に当て嵌めようとしている。何故ならば、違う思想を提唱してしまえれば、右翼と左翼に弾圧されているのが目に見えてしまうからだ。然し、政治思想に操られてしまったら、自分の考える力も育たなくなる。それに、政治思想があるのは、個性が無い人が居るからであり、個性が無いから、政治思想に飛びついて、個性を付けようとする。はっきり言うが、個性というものは政治以外にも付けられるものは沢山ある。文学・音楽・美術・哲学・科学・センス・ファッション・思想・愛情――意外にも文化の世界にも日常世界にも個性を作る場所はあるんですよ。盲目的に政治思想に囚われてしまうのは、それに気付かないからだ。然し、気付けないのは極右と極左の思惑通りなんだ。彼らにとっては政治思想に囚われた人間は自分の仲間として入れられるから。そうして、自分達にとって都合の良い世界を作ろうとする。
政治思想に囚われ過ぎちゃ駄目なんだ。僕らには個性を持って良い権利があるじゃないか。

2.歴史的観点で見るとどうなるのか

 言うまでも無いが、人類は退化しているように見える。古代ギリシャを見て見なさい。君達は古代ギリシャの哲学者なんてヘラクレイトスやソクラテス、アリストテレス、プラトンなどの男性哲学者しか思い浮かばないだろう。だが、君達はその中にもヒュパティアやキュレネのアテーレなどの女性哲学者が居る事を忘れてはいけない。
 それを踏まえて聞いて欲しい。僕は創作用に古代シュメール出身の女性キャラを作ろうと、シュメール人の人名について調べていた。(結局無理だったけど――)
すると、ある記事を見つけた。その内容は『女性の社会進出は「文化の破壊」にはならない』みたいな事であった。
 その時は納得していたが、今になって思ったのが、「そんな事は当たり前だ」という事だ。
 何故ならば、古代ギリシャや古代メソポタミア、古代エジプトの女性なんて現代を生きる我々よりも知性が高いに違いないじゃないか。古代文明は現代の文化とは違い、無から何かを生み出そうと発想を生み出さなければ生きてはいけない時代だったからだ。それも、エジプトやメソポタミアみたいな砂漠地帯はね! 男女共に知性があった。男女共に協力して知恵を活かして生きようとした時代だからね。だからお互い強かったから男神も女神も居た。  
 古代文明は未だに未解明な部分があったり、現代でも再現不可能なロストテクノロジーがある。それ故に現代よりも優れている事が分かるであろう。
 一方現代では、発展していった技術だけに頼り、自分で考える力も創造力も時が刻むごとに薄れていく。そして、行き着く先は自由も個性も無いディストピア。道徳心は古代文明よりも優れているかもしれないが、そんな現実社会の誇りであった道徳心も穢れていく。そして、道徳心が穢れていくのも道徳を軽視した僕達現代人や暗黒の歴史を作って来た人間の所為なんだ。
 そう思えば、僕達は本当に堕落したと思わないかい?

3.思考力の無い世界はどんな感じなのか

 では、思考力の無い世界はどんな感じなのか、君達も分かる通り、文明は崩壊し、人類は生きる知識を得ようとしても思考力が無い為、人や現代技術に頼って来た人類は生き残るのも難しい。たとえ知識を得ようとしても間違った情報を鵜呑みにして、人類の滅亡を加速するだけだ。
 最善のシナリオであれば、人類はまた知恵を習得して、滅亡を回避するが、最悪のシナリオは人類が不正解の道ばかりを選んで、破滅の道に行き着いてしまうという事だ。どんなに強い帝国でも、人の話を聞かない自分を正義の人間だと勘違いした愚者が帝王となれば、帝国はその愚者に合わせなきゃいけないから愚者ばかりの帝国となり、いつか破滅の道を辿る。
 よく考えて行動する事はこの先の人類を良くする為には必要な行為である。道徳でも数学でも国語でも考える力が必要なのは、考える力がこの世界に重要だからである。然し、情報社会になってから、情報リテラシーや情報モラルが増えて、より人類に知識量が増えると思っていたら、蓋を開けたら情報モラルも情報リテラシーも守らない人々が多い。
日本の諺でも、「馬の耳に念仏」「井の中の蛙大海を知らず」などがあり、やはり現代で厄介な人間は古来から居たのかもしれない。然し、現代はお互いの文化を尊重し、お互いを受け入れる時代です。
「お前は○○だから死ね」やら「この文化が嫌いだから今すぐ規制しろ」やら「自分達を認めて欲しいけど、自分達はお前達を認めない」やら言っている政治思想に囚われる人間が遅れているのだ。僕達は今だからこそ互いに助け合うべきなんだ。この今こそ互いに助け合うチャンスなんだ。それを邪魔してはいけない。この時代は困難を乗り越え人々がお互いを認め、お互いに歩み寄る時代なんだ。その間は失敗や後悔が生まれ、葛藤が出来て仕舞う。だけど、その葛藤を乗り越えてこその僕ら人類じゃないのかい?

4.これからの人類に大事なものは何か

 これだけ訴えて終わらすのは、「結局何が大事なんだ」って思うであろう。では、僕なりの候補を挙げていこう。

1.お互いの価値観を尊重する事

 これからは『多様性』の時代だ。然し、多様性を訴える人達が人の価値観を否定すれば本末転倒です。そんな人達を含めた人類に必要なのは、お互いの価値観を認め、尊重する力じゃないか。僕達は人類という生命体の群衆じゃないか。無理に人類の定義なんて決めなくて良い。色々な人が居て良いって思える事が大事なんだ。犯罪者は許してはいけない。だが、犯罪者と同じ特徴というだけで一緒くたにして排斥するのはあまりにも多様性とは言えない美しくないものだ。或物事が起きて、「こういう奴はこういう事を起こす」と短絡的に結論付けて排他的になるのは、『多様性』を無視しているとしか言いようがない。頓知を言うけど、多様性を言い換えると『ダイバーシティ』で、このカタカナを単語っぽく分解すると、『ダイバー・シティ』。直訳すると『潜水士の街』。これで何が言いたいか、多様性というものは深海のように複雑で未解明なものも認めることなんですよ。理解出来ない価値観も認める事なんですよ。多様性というものは、潜水士のように自ら自分とは違う世界・価値観という深海のようなものに歩み寄る事なんですよ。多様性というものは人類が皆互いを助け合う為に存在するのだ。

2.考える力・調べる力

 これらは『お互いを尊重する力』を成長させる為に必要な力だ。物事に対して調べもせず、考えもせず特定のものに対して悪だと決めつける行為は反って多様性というものを否定してしまうのだ。一旦、自分自身にも懐疑的になると良い。そうして自分自身を疑い、自問自答するようになれば、自然と考える力を得る。そして、調べる力は好奇心を育てれば良い。好奇心を育てるには、兎に角様々なものに挑戦してみよう。そうすれば、自然と好奇心が成長する。考える力も調べる力も難しいように見えて、知的な活動をすれば自然と習得する力だ。以下は推奨する癖。
考える力「よく考えてみたらこれおかしいぞ?」
調べる力「調べてみたけどよく分からないなぁ……もっと調べよう」
考える力「この炎上事件はどうしてこんな事になったのか?」
調べる力「これってどうなんだろ? 取り敢えず調べてみよう」
 個人的には、人は好奇心と思考力で成長する生き物だと思っています。好奇心により思考力が上がり、思考力が上がる事によって、感情のコントロールが出来、物事に対して客観的な視点で見る事が出来ます。まずは一歩引いて全体を見てから考える癖をしましょう。そうすれば、考える力と調べる力が上がるようになります。

3.自分の価値観を押し付けない事

 自分の価値観を押し付けると、『何故その価値観が大事なのか?』という疑問が生まれないので、自分の価値観に懐疑的にならずに、自分の価値観に背く価値観や考え方、人物に対して排除しようと、攻撃的となり、過激な獣と化します。そうなってしまえれば、どんなに指摘しても、「俺/私は悪くはない!」と一点張りとなる。スカッと系の物語に出てくる悪役って、誰かが指摘したり説教すると、「私は悪くない!」「俺は悪くない!」みたいな事を言いますよね? それは行動次第で<悪>というレッテルを貼られるのが嫌だからという自己中心的な理由か悪気が無い故に邪悪な衝動に駆られたからという理由が多いだろう。
自分の価値観を押し付ける行為は極めて質の悪い行為である。その行為の被害に遭った者は皆自信を失くしたり、個性を人に見せるのが怖くなったり、人々に対してネガティブな感情が湧き出るようになる。要はその行為は人々のトラウマとなる行為でもある。そして、人々から〈多様性〉が遠ざかってしまう。多様性の実現には、自分の価値観を押し付ける行為をしてはならないであろう。

4.『全員こうあるべき』という結論はなるべく避ける事

 人々が皆同じである事はありません。容姿に関しても、性格に関しても、価値観に関しても、生活に関しても、全てが同じではありません。現実世界の街並みに居る人々を見て下さい。其処には色々な人が居ます。仕事に熱心なサラリーマンや今を楽しむ学生の子達、本を読み耽っている読書家、好きなものに耽るオタク、将来の為に熱心に勉強する学生の子達、人間関係に疲れている人、昔は悪事をしたが今は改心して真面目に生活する人、一般社会に溶け込んで生活する有名人達……世界中に居る人の特徴を挙げるときりがないぐらい、人々は君達が思うよりも何億倍も多種多様な生命体だ。だから、全員同じというものはあくまでも誰かの理想であり、現実では全員が同じ特徴を持つわけではないのだ。<普通><常識><絶対>という言葉に囚われないでください。それらの言葉から抜け出した先には、君達にとって知らない世界が広がっているから。

5.そもそも何故こんな話題を引き出したのか

 君達の中には何故僕がこの話題を引き出したのかを訊きたいのかもしれない。では、僕が何故こんな話題を引き出したのかを説明しよう。
 僕はカクヨムやアルファポリスに自分の小説を投稿しようとしているのである。僕は超が付く程の設定厨であり、世界観の設定は或る程度済ませたのだが、肝心なキャラ設定に苦戦していた。特に、古代文明のキャラの名前や髪型の名前、体格の表現の仕方、服装の名前などの容姿の表現や性格の表現に苦労していた。そして、何よりも、その設定で大丈夫かそうではないかだ。調べもせずに適当に設定をしてしまうと、炎上する虞があるからだ。
プチ炎上を体験した事があるが、めんどくさい思いをしたので、或程度避けようと思っていた。
然し、よくよく考えれば、(何故第三者相手に配慮しなければならないのか、自分の作品は自分のものなのに、何故そんな事を恐れているのか――。こういうキャラが居るならば、ああいうキャラも居ても良いじゃないか。何故多様性を重視しようとする現代社会で、多様性を殺すような事をするのか)という事が脳裏に過った。〈僕が作った作品だから、その作品について僕が文句を言えばいいのに、何故他人の批判に怯える必要があるのか、一度決めた設定は却ってそのキャラに失礼ではないか〉と――。
〈そもそも、架空上の人物の容姿に対して批判する事は、創作活動の妨げになってしまうのでは〉と――。
 一旦考えて欲しい。キャラの容姿云々価値観云々で自分の価値観を押し付けるのは如何なものか、そもそも何故他者の作品に自分の価値観を押し付ける必要があるのか――。
 そもそもその人達はよく考えて文句を言っているのか、何でそんな人達が増えてしまったのか。

そして、行き着いたのは、<人類はもう考える葦じゃなくなったのでは?>という事だった。もうその人達は気に入らないものを思考停止の体たらくで中傷しているのではないだろうか? こういう人は居てはいけないなんて断定しないで欲しい。犯罪者を擁護してはいけないが、こういう価値観を持った人もこういう容姿を持った人も居て良いよねという考えになって欲しい。

最後に(※前の記事の言葉も引用してます)

 でも、何故こうなってしまったのかも気付いている。こういうものは大体人類を奴隷にする為のメディアの言論統制や権威主義者による言葉狩り、権力者の洗脳でしかない。洗脳された人達は短絡的に断定し、偏見というものを強くさせる。メディアのオタク差別も、戦時中のメディアによる情報操作、そういうものが治らなかった結果が人間を考えないただの葦にさせてしまったんだと。
 だからこそ、人類には頑張って欲しい。どんだけ失敗しても、間違いもしても良い、嫌な時は逃げ出しても良い。でも、深く考える人になって欲しい。政治思想に惑わされないで欲しい。ありのままに生きて欲しい。お互いの価値観を尊重して欲しい。

<普通><常識><偏見><絶対><不可能>という言葉に囚われないで欲しい。

余談にはなるんだけど、記事の画像にもなっている奴は歌川国芳さんの浮世絵です。浮世絵って良いですよね。

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