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正しさ、正義という言葉の怖さを思う

正しさ、正義という言葉の怖さを思う。

世界共通の普遍的な正しさ、正義なんてものは、ないのだと思う。
「命は粗末にしてはならない」ということですら社会情勢で変わるらしい。
根底に各々の価値観の違いがあるからだろう。

だから、社会の運営には泥臭く地道で徹底的な議論と交渉が必要だ。
わかりやすい、割り切れる社会は何かを(誰かにとって大切な何かを)切り捨てているのだと思う。

だからこそ、誰か一人の”正義”で運営される国になってはいけない、と強く思う。
国家と社会の分断を生まないようにするには、社会の構成員である国民の声を聞き
一人でも多くの国民の声が反映できる仕組みを維持できるリーダーが必要だ、と強く思う。

2018年12月、わたしがミャンマーに来たばかりの頃、Daw Aung San Suu Kyi氏の演説内容を紹介した記事を読む機会があった。

それは、NLD政権が進めていた「国民の読書習慣推進プロジェクト」のイベントで行われたもので、
読書がダイバーシティを重んじる価値観を生む、ということに言及する内容だった。

もう全文紹介記事はネットから削除されてしまっているため、当時の自分の日本語でのメモ書きを元にした内容になるが、下記に紹介させていただきたい。

強く記憶に残っているのは、読書体験の中で特に純文学を読むことの意義について触れている箇所だ。

ヤンゴン大学で若者たちと純文学について議論する機会があった。
その際一人の若者が課題図書の「ライ⻨畑でつかまえて」は自分の環境と違いすぎてあまり好きではないと発言した。
好き嫌いは個人の自由だと思うが、私は彼女の「この本を嫌いな理由」に賛成できない。
 
読書の効能は、自分と異なる生活環境や、自然環境、文化、考え方、視点を知ることができることだ。世界中には多くの文化があり、我々と違う考え方の人々もたくさんいる。実際に、読書はわたしの世界を広げ、内面を磨き、成⻑を支えた。読書を通じて異なる文化を知った時、その文化を好きになるかもしれない、もちろん逆もあるだろう。
ただ「自分たちと違うから」という理由で嫌いになると言うのは、わたしには受け入れられない考え方だ。 
子どもたちには特に読書を勧めたい。大人はそのサポートをすべきだ。
子どもたちが本を読んだ後、周りにいる大人は子どもたちに本の内容について議論する機会を与えて欲しい。
意見に正解はない。5人いれば5人とも違う意見を持つかもしれない。
お互いの見解を出し合えば、より大きな視点をもつことができるようになる。 


読書体験が育む多様性への寛容を自ら国民に説くリーダーがいる、ということに、私は当時大変感銘を受けた。

ミャンマーは多様な民族が住む国だ。言葉が違うだけでなく、文化や宗教も違うこともある。
そのような国の運営が難しい舵取りを要することは政治素人の私でも想像に難くない。

山積した課題の解決を早急に進めるには、力づくが早いだろう。
軍がNLDの政権運営能力を疑問視していたという内容も見た。
本当のところは分からないが、民族問題への遅さがクーデターが起こった一つの要因だという記事も見た。

仮にそのような正義感が軍の中にあったとして、
(こんな状況で、そうなるべくもないが)、経済が発展すればこれまでの暴挙は許されるとでも思っているのか。
国民に対して武力の行使をしなければ遂行できない国など、
非暴力を貫く国民に対して発砲し死傷させる国など、
なんのためにその体制を維持する必要があるのか。
誰のための正義であり、国なのか。

眼鏡を拭いて、よく国民を見て欲しい。
彼らが求めているのは誰か一人が上から与える「正しさ」やその果ての「国の繁栄」ではない。
国民は、それぞれの価値観を持ち寄って作る社会を求めているのだ。
それを議論できる場を、それを作るリーダーを求めているのだ。

明日2021年2月22日、ミャンマーでゼネスト、大規模なデモが起こる。
もう本当に、これ以上、血が流れないよう
大事な仲間が傷付かずにいられるよう
この日一日でも、世界の目がミャンマーに向いて欲しい。




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