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00三銀蔵のHP 移転

HPを作っていたレンタルサーバーが、サービスを停止してしまいました。
そこで、内容を このnoteのマガジン三銀蔵 多賀坊人と多賀大社」に改めて書いていきたいと思います。
ご興味のある方は、フォローして頂けると幸いです。


三銀蔵(さんぎんぐら)とは

滋賀県の多賀大社前にある私の母方の祖父の実家にある蔵です。と言っても、祖父の姉の家で、その息子のお嫁さんが当時は住んでおり、三木家の本家として守って頂いていましたが、もう片付ける体力も気力もなく、お手伝いした所、多賀の歴史にとって 貴重な資料がたくさん出てきました。

今はなき、多賀坊人(たがぼうにん)の一族だったのです。

三銀蔵(さんぎんぐら)

三銀蔵の名前の由来

お子さんがおられないので、何とか 三木家の歴史を後世に伝えたいとの事で、私にとっても 母方といえど 先祖の歴史がいっぱい詰まった蔵を放置することが出来ず、活動することになりました。

蔵の中の物によく「三銀」と焼き印が押してあった事から「三銀蔵(さんぎんぐら)」と名付けました。

「三銀」というのは、三木銀次郎の略です。

三木銀次郎とは

明治22年(1889) 12月14日 甲賀市小佐治 岩田伊三郎の四男として誕生し、大正5年 三木家の長女 さだ(私の祖父の姉)の婿養子として 多賀に来て三木家の家業である「多賀坊人=多賀講」を継ぎました。

後に詳しく書きますが、私の祖父は四男で当時 慶應義塾大学の学生。
長兄は伊藤忠の部長(後に丸紅常務取締役)、家業の多賀坊人をつぐ予定だった次男は既に21歳で亡くなっており、三男は日本郵船につとめ船に乗っていました。伊藤忠などの近江商人と同様、娘に優秀な婿殿を迎えるのも 普通の事であったようです。

後にわかったのですが、三木家は元々岩田家から養子に入っており(これは、多賀坊人であったが故)、銀次郎は その本家筋の男子でもありました。

三銀蔵の看板

三木家は江戸時代まで、本家の岩田家と共に甲賀小佐治の社僧(修験者)も兼ね、代々多賀信仰を全国に広めた「坊人」の一族でした。その活動は、信頼関係で結ばれた「多賀講」の基礎になっていきます。
 明治政府による神仏分離政策の後、三木家は多賀に移り住み、急変する社会事情のなかで神主になります。この蔵は、文政十年(一八二七)に現在の多賀大社参集殿に向かう参道に建てられていたものを、昭和八年(一九三三)の多賀大社大造営のとき、三木銀治郎が買い受け移築し、「三銀蔵」としての歴史が始まります。明治維新以降も「坊人」の子孫として、全国の多賀講の皆さまや、地域の方々とのご縁を大切にした暮らしぶりは、蔵に遺る数多くの古文書・資料に記されていました。
 また、この屋敷の建物と、その後、多賀大社に移築された「文庫蔵」は、当時の戸主(車戸氏)が桜田門外の変後、桂小五郎に彦根藩の尊王の気持ちを伝え、密かに偵察に訪れた伊藤博文らを屋敷に留め置き、両藩の調停に奔走したという明治維新の秘史を今に伝える記念物であることも、「三銀蔵」に遺された資料から判りました。
三木本家を最後にあずかった者として、貴重な資料や建物をどのようにすれば良いか、思い悩みながら、多賀の人々やこの地を訪れてくださる方々、そして未来の子孫にご先祖さまとのご縁が結ばれることを願っています。                                                                                             当主 三木しげ子

以上、看板の内容です。

 

今後の内容・『三銀蔵』の冊子など

以下の三冊を作成しています。又、蔵の中にあったものなど
その内容を少しずつ、UPしたいと思います。

●2018年 サンライズ出版より、自費出版


簡潔にまとめた一冊

●『三銀蔵 三木家 family history』A・B

AB二部構成。合計230ページ位になります。未発表。
「A」では、以下の内容を書いています。
三銀蔵とは
第一章 三木家のルーツを探せ
第二章 三木家の家業・幻の坊人とは
第三章 三銀蔵の歴史と明治維新

「B」は、個人情報や三木家以外の方に配慮せずに三木家の歴史を子孫の皆さんに伝える為に書いているので、PRIVATE( プライベート ) としました。

第四章 明治維新後の三木家の人々

蔵から出てきた、結構貴重なものの写真

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