最初で最後

秋の月は美しい。冷たく薄い空気のベールが一層引き立てて魅せるのだろうか…なんて柄にもないコトを思いながらバーボンを喉の奥まで流し込んでいた時、そのお客様はフラッと入店された。パキッとしたスーツ、手には何種類もの書類が入り厚くなった封筒。『すみません、1番高いボトルを出してください。』と。初めてのご来店のため『ショットもございますが如何なさいますか?』と尋ねる。疲労を顔にはりつけたまま口元に笑みを浮かべて一言『ボトルを』少し間を置いて『これが最後なので。』
スコッチの封を切りカットが美しいグラスに大きめの氷をひとつ。ボトルから最初に注ぐ時の音はなんとも言えない良い音で大好きだ。そして次にフワッと香りが包む。この一連の動作の間もお客様は何も話さない。グラスをお出ししてから一歩下がり、目で見るコトをやめ様子を肌で感じるように集中した。しばらくしてカラン、と氷がグラスにぶつかる音と溜息が聞こえ 大きくはないがはっきりした口調でポツリ、ポツリと話しが続く。会社はずっとそこそこ景気が良かった、天狗にならない様手を抜くこともせず頑張ってきた、でも今日破産手続きをしてきて その帰りなのだと。明日からはこんな美味しい酒は飲めなくなる、と。
一杯飲んだだけで、綺麗に支払いをされ 笑顔でありがとう、美味しかった とお帰りになった。最後に『もう来れないから、残りは好きにしてくれていいよ。』と。
あれから20年近く経ち、コロナ禍の今、そのお客様の気持ちが少しわかるようになった。不可抗力というものがあること、努力してもどうにもならない時が本当にあるのだということ。可愛がって頂いた方からの閉店のお知らせが、こんなに続くなんて考えたこともなかった。最近ではポジティブ過ぎる私に励まして欲しいというだけでご来店される方が増えた。自分だけが不況ならやり方を変えればいい、仕事を変えてもいい、でも世界中どこも一緒だからね、あなたひとりだけがつらいんじゃないよ、と。もうそれしか言えない。大丈夫、とは言えない。
来年の春はみんなでお花見ができるといいな。
その時はあのスコッチを持って行こう。
では、おやすみなさい。