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【考察】キリエのうた


2023.10.13 キリエのうた 公開おめでとうございます。

映画を2回観て、原作を2回読んだ上で、今日は考察をしていきたいと思います。
原作も映画もネタバレガンガンにありますので、お気をつけて。


1.小塚希

主人公ルカの実姉の希(キリエ)です。
母と共にクリスチャンの高校二年生の女の子です。夏彦と恋仲になり、子どもを宿しますが、震災で亡くなってしまいます。キリエとは"主よ"という意味があるそうです。
私自身キリスト教に詳しい訳では無いのですが、色々と調べてきたものを私の意訳でお伝えしていきます。

クリスチャンは婚前交渉(結婚前に性交渉をすること)がNGとされています。これは、原作にも名言されていますし、映画でも希が「ダメだよね」と口にしています。しかし「止まらない」のです。中学二年生の頃から想っていた夏彦と手を繋ぎ、神道である神社に行きます。旧約聖書では、神仏は偶像崇拝であり、偶像とはやみくもに実態のないものを崇拝することとし、これを禁じました。(参拝はしてないんですけどね、)そういう場所で夏彦とキス(原作ではそのもう少し先まで)をしているため、「こんなのダメだよね」と言っています。

2.小塚ルカとキリエ

姉の名前でシンガーソングライターをしている女の子です。この物語の主役となります。
ルカは原作にもある通り、"ルカによる福音書"から、名付けられました。この福音書のルカという人物はざっくり言うと、主の教えを伝えながら旅する医者のひとりです。この時点でだいぶルカとリンクする気がします。
小塚ルカは、若くして死んでしまった姉のことを忘れたくない。忘れないでほしいという気持ちが強く根本にあると思います。そのため、姉の名前を名乗り、歌にして姉のことを伝えながら旅をしているのではないでしょうか。(夏彦に歌いながら旅行してるんだって?と聞かれるシーンがあります)
話は逸れますが、ルカが大阪に来たばかりの頃、路上ライブをする男性と仲良くなります。その男性と歌った歌"音痴の聖歌"の歌詞には、"もしも歌えたら君のことを歌にするよ"とあります。ルカが路上ライブをするようになった理由、歌う理由もここにあると思います。(原作にも、この男性の真似をして投げ銭をもらおうとしていたことが書かれています)
ルカによる福音書のルカは医者です。ルカはシンガーソングライターですが、その歌声は人の心を癒したり感動を与えます。それは、どこか医者とまでは言いませんが、似ているとは言えると思います。

3.潮見夏彦と七夕

潮見家は小塚家のようにキリスト教ではありません。
夏彦と聞いて思い浮かぶのはやはり、七夕かと思います。彦星の別名が夏彦星と呼ばれています。キリスト教の色が強いお話でいきなり七夕!?と思うかもしれませんが、これはこれでお話の軸となっています。
七夕のお話は有名ですが、彦星と織姫がお互いのことに夢中になりすぎたが故に仕事を疎かにしてしまい、それを怒った神がふたりを離別させ1年に1度だけ七夕の日に会える。というものでした。彦星は牛使いですが、夏彦も牧場で働いているあたりもリンクしますよね。

映画よりも原作の方がより伝わりやすいと思うんですが、ふたりが恋仲になってからは無我夢中というか、受験勉強そっちのけで希に魅了されている夏彦。また、夏彦とゆっくり通話したいから帰宅すると言ってしまう希。このふたりが希の死によって離別してしまいます。
けれど、それでは七夕の年に一回しか会えないというエモーショナル展開がないわけです。しかし、このふたりは再会していると私は思っています。
ちなみに"キリエのうた"は13年におよぶ物語ですが、彦星に当たるアルタイルと織姫に当たるベガは14.4光年距離が離れているらしく、光の早さで14年以上かかるらしいですよ。

4.Chirist ist estanden 再会

主生き給へば
主は、生き返ります。
希も生き返るのです。しかし、人間は生き返りません。キリエのうたはファンタジーではなく、作られた物語の中でもかなり人間臭くリアルだと思います。夏彦の欲求や苦悩。マオリの人生転落。希の盲目さ。綺麗事じゃない物語。
“希の面影を見た”と原作に書かれた夏彦の物語の終わり。ルカに「顔を見せてくれ」と泣きながら頼むシーンでは、いくつか心情を想像できるけれど、私は“希と夏彦の再会"説を推したいです。まさしくこのシーンで流れているのが Christ ist estanden(=主生き給へば)でした。

5. 夏彦の罪と償い、そして赦し。

キリスト教では、"罪を悔い改め、赦しを乞えば主は赦してくださる"と言われています。夏彦の罪とは、結婚する約束をしていない希との婚前交渉、希への後ろめたさ、「見付からなければいいとも思うんです」という自分本意さだと思います。(2023.10.19追記 婚前交渉についてはした直後に希に許してくれと謝罪しています。赦しを乞いましたが、悔い改めたとは言えないとも取れます。その後婚前交渉をしなかったとは明記されてませんでした)
夏彦は受験を控えた高校生で、相手は一つ下の同じ高校生です。悩まずに希との結婚を約束できるわけがありません。なんてことをしてしまったんだと、後悔したって遅いですよね。
時が経つにつれて、亡くなってしまった希への想いは薄れるばかりか、罪悪感は増すばかり。夏彦はクリスチャンではないけれど、罪を償わなければと考えたのでしょう。まだ十代の彼が(この時点で亡くなってしまったかもしれない、見つからない)フィアンセの妹を迎えに、宮城から大阪まですぐに向かうことは、簡単なことではありません。希の妊娠を知っているのは、震災後、夏彦のみです。厳密に言えばルカは知ってそうですが、一度しか会っておらず、身内を全て亡くしてしまった年の離れたルカが、自分の人生に影響するとは普通は思わないと思います。これを期に全て無かったことにできるんだから、そうすることもできたはずです。
大阪に向かっただけではなく、高校生になったルカの望みを叶えるため、血縁関係がないにも関わらず一緒に暮らしたり、マオリに友人になってほしいと頼んだり、警察署からルカを引き取りに行ったりしました。ここで思い出してほしいのは、前述したとおり、岩井監督作品はかなり現実的です。もう一度言いますが、綺麗事じゃないのです。夏彦がただの優しさのつもりでルカをここまで助けるような、そんな綺麗事の話を岩井監督は作らないと思います。だからこそこれは、夏彦の罪の意識からの償いだと私は確信しています。ルカに希を重ねている説も個人的には有カでしたが、ルカを希の身代わりにしてしまうと償いは成り立たなくなるため、その説を私は切り捨てました。(ルカが夏彦に恋愛感情、または家族愛的な愛情を恋愛感情と勘ちがいしているというパターンは多いに有りえると現時点では思ってます。ここもう少し考察したい部分です)
夏彦の償いは13年という長い年月をかけて、赦される日がやってきます。それが、Christ ist erstandenで前述した希の復活。そのとき、夏彦は泣きながら初めて「ゆるしてくれ」と赦しを乞いました。何故13年という長い月日がかかったのか。夏彦が赦しを乞う直前、ルカに対して「なんもしてない!一度も守れなかった!」と想いを吐露しました。それほど彼は自分の無力さを感じていたし、犯した罪はとてつもなく重いものなんだと思っていたんだと思います。13年間苦しみ続けた夏彦はようやく赦され、前に進めるのではないでしょうか。

6.広澤真緒里と一条逸子

いきなりですが、ニュージーランドの先住民族をマオリ族と言うそうです。マオリ族は「マナ」を大切にする民族で、人はみな生まれるときに最大級のマナを持っていると考えられています。このマナは、不徳や罪を犯すと失っていき、善い行いや人から感謝されれば、マナを取り戻すことができると言われているそうです。
マオリは、この考えに基づくと、逸子として結婚詐欺を繰り返し、人からお金を騙し取っていました。マオリのマナは底をついてしまう程だったのかもしれません。だから刺されてしまったのかもしれません。
原作には、映画に描写のないマオリが上京して逸子になるまでの経緯が書かれています。マオリに逸子と名付けた柚子子という女性は、その由来を「自分が見出した、一番の逸材」という意味を込めたと原作で書かれていますが、この"逸"の字には、"にげ走る""世間から隠れる""らくにして楽しむ""わがまま。きまりにはずれる"という意味があります。どれも、逸子が生きてきた人生を表せます。

7.逸子こと真緒里は死んだのか

そもそも、刺されたときの彼女は逸子だったのか、はたまたマオリだったのか。
行方不明になっていた逸子が、キリエの前に再び現われ、ふたりで海へ行ったときのことです。彼女は眠そうにしているキリエに「何よ、ルカ。また寝るの。あたし目が醒めてしまったよ」と伝えます。この台詞からふたつ考えられることがありました。原作には、「あたし目が醒めてしまったよ」とありますが、映画では、「あたし"は"目が醒めてしまったよ」と言うのです。これは、台詞がかわったのか、"は"が崩れた言い方なのかわかりません。後者だとしても、岩井監督の指示なのかすずちゃんの表現なのかもわかりません。しかし、"は"という音が聞こえるこの台詞に意味があると私は思わざるを得ませんでした。とても大事な一言なのではないでしょうか。なぜなら、目が醒めてしまった=もうこの世にいないと言った広澤真緒里に戻ったと解釈できるからです。
また、もうひとつ考えられることがあります。それは、「何よ、ルカ」ここです。原作で確認してみると、ルカが今はキリエと名乗っていると知ってから、逸子はキリエのことを人にキリエを紹介するとき以外"あなた"と呼んでいました。しかし、ここでふたりが再会したときぶりに、彼女はルカとキリエのことを呼ぶのです。ふたりは、お互いに"逸子""キリエ"の名で呼ぶ約束をしていたので、彼女はその約束を破ったことになります。何故か、それは彼女が"もう目が醒めてしまったから" 以外にありません。
行方不明になって戻ってきたときも彼女は、キリエのことをルカと呼んで起こしました。このときにはもう、彼女は一条逸子ではなく広澤真緒里だったんだと思います。
ここで、話は戻ります。刺された広澤真緒里は死んだのでしょうか。それとも生きてるのでしょうか。
逸子の人生ならば、刺されて逃げ回ってるかもしれません。真緒里であれ逸子であれ、同一人物なので、マナを無くして死んでしまったとも取れます。
しかし、原作には彼女は見つからなかったとあります。そして私はさきほど、刺された彼女は一条逸子ではなく広澤真緒里だったと書きました。
マオリは、ルカにとってどんな人だったでしょうか。友達になり、一緒に過ごしてくれて、いなくなったときには寂しいと感じるほどの相手でした。そして、再会を喜びました。また、キリエと逸子の関係性だとしてもそうです。逸子のおかげでキリエは歌う場所が増え、「今はこのままで、楽しいです」と思えるほどになりました。
ルカとキリエにとって、マオリと逸子は"感謝している存在"なのは間違いありません。
マオリと逸子のマナはルカとキリエによって、戻っていてもいいはずです。
この考えから、私はマオリが生きていると考察しました。
さて、いくら一条逸子と名乗っても一条逸子は広澤真緒里であることに違いありません。名前を捨てていたとは言え、広澤真緒里なのです。マオリに戻ったとしても、逸子のときにした犯罪はしっかりと償わなければなりません。彼女は生きていて、然るべき場所で罪を償っていると信じたいです。そしていつか、キリエによってマオリは赦されるのだと思います。

8.最後に

長文であり駄文をここまで読んでくださった方々ありがとうございます。考察や感想は観た人読んだ人の数だけあっていいものだと思っています。私の考えが全てではありません。岩井監督が呼んだらこれは違うよって思うかとしれません。あくまでもこれは私個人の考えなだけであり、正解ではないです。読んでくださった方にはその人の考察や感想があると思います。
こういう考え方する人もいるんだな。面白いな。と思っていただけたら嬉しいです。

キリエ、夏彦、マオリが幸せでありますように。
そして、キリエデビューおめでとうございます。


2023.10.18


考察2,3もありますので是非。


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