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指が痛い思い出🎹弾きたい人が弾けばいい🎹

中学までピアノを習っていたことがある。自分からやりたいと言ったのではなく、地域の子がほぼ習っていたので習い事の一貫という感じ。
私の親は、子ども(我が子)に暇を与えてはならないとか、自分たちが面倒を見れない時間はどこかに預けておきたいという考えだったようで、夏休み春休みなどの長期休暇は祖父母の家へ、それ以外は週5で放課後習い事に通っているというスケジュールだった。
だから、習い事の選択に子の意志は反映されず、未熟な子が行方不明になったり非行に走るのを避けるために時間的に拘束しておくのが目的。なので「やめたい」と言ったとしても怠けとかワガママと判断され、私の意見が聞き入れられることはなかった。親としては自分たちのスケジュールがなにより優先なので、私が育った家庭で子の要望を聞くことは普通ではなかったのだ。
そんな習い事のひとつだったピアノは、私にとってトレーニングのようだった。先生に怒られないよう練習して弾く。楽しく弾けた記憶はない。
中学の時点で「ピアノ習ってていいな」とか「私も小さい頃から習いたかったな」と言われることがあり、そういう人もいるんだな、過去に出来なかったことをやりたい、私もやりたかったと言われてしまったら何とも言えない気分になるということを学んだ。
合唱コンクールなどの伴奏者を決めるため、教師が「ピアノ弾ける人」と尋ねると、ほとんどの人が手を挙げた。内弁慶で恥ずかしがり屋な人も堂々と意思表示していたようだ。そのときは、日頃の印象より積極的な人が多いなと不思議に感じてなんとなく記憶に残っていたのだが、今振り返ると、手を挙げた人たちにとってピアノ演奏は負担ではなく、むしろ楽しみで光栄なことだったのかもしれない。冷ややかな記憶で終えるのでなく、習い事や趣味は直接仕事につながらなくても自分に自信をつけて生きやすくなるために活用するのが利口だということにもっと早く気付けばよかった。

社会人になって、自分の意志で習い事に通う人がいることを知り、最初は信じられなかったが、何事も本気ならば本人の意志で始めたり継続することもできるとわかってホッとした。仕事以外でピアノに触るなんて、よほど興味があるとか熱意があって好きなんだなぁと感じたけれど。
私は与えられたことをこなすふりばかりで、評価や仕事に関係なく心が安まる趣味や好きなことが思いつかない時期だったので、もっと早い時期に意思表示を続けていたら違っていたのだろうかなんて考えた。
小4の時点で「ピアノをあの先生に習うのは嫌だ。レッスンはわたしに必要ない」と、親が根負けするほど訴えられていたら・・・
大人になって「こどものときに習い事をしたかった」という意見を聞くと、自分を基準にして嫌々習ってもほぼ逆効果だから本人の意志で準備して始めるのが1番だと私は考えている。「自分の意志ではない習い事に時間をとられたくなかった」という私の思いも、過去のこととして扱い、今できることをするしかない。
今ではしぼんでくたびれてしまった私の子ども心だが、こんな私にも自意識過剰で傲慢な少女時代があったはず。強硬手段により早い時期にピアノを辞めることが叶っていたとしたら「あのとき続けていたら世界的なピアニストになる道があったかも」なんて、その後暇を持て余すたびに夢想してばかりの人生になってしまった危険性もある。愛情も熱意も持ち合わせていないくせに図々しい、思春期から青年期につきものの夢みがちで厄介な妄想のように。実際は、親が決めたことに口出しや反抗をしたらもっと私は自由が制限されただろうし、手に負えないと判断した親に家から追い出されたかもしれない。
過ぎたことは、すべて仕方なかったのだ。そう思って進んでいくことにする。きっと、過去を悔やんでばかりで新しく創造的に行動しないことがいちばん非建設的でどうしようもないことだから。

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