インタビュー企画、浅井×青山弘一「サーフィン」
〜青山さん今日の波はどれくらいですか?〜
〜そうですね、頭半くらいやったかな〜
〜えっ、そんなに?〜
〜ここのところずっと波ありますよ、さすが四国やね〜
はじめに
こんにちは。お山出版編集部です。
今回は、40歳にしてサーフィンに出会った浅井先生が、サーフィン歴50年以上という青山弘一さんにお話を伺いました。波と自分、波と自由について考えます。
日本にまだサーフィンが普及していなかった時代に自らサーフィンの技術を開拓し、波と対話しながら関わりを続けてきた青山弘一氏。JPSA公認のプロサーファーとして国内で活躍後、20フィートの世界最大級の大波が立つ事で知られている、ハワイ・ワイメア・ベイのビッグウェーブに挑戦。70歳を越えた今も、現役のサーファーとして毎日のように海に入る。
長年の関わりの中で、波の難しさと面白さの両面を熟知し、「波にも人生がある」と語る彼の言葉は、波への愛と自然への深いリスペクトを感じさせる。
現在は四国徳島県にて、サーフィンの合間?に波流月ゲストハウス in NASAのオーナーも務めている。
インタビュー
浅井 青山さんはいつ頃からサーフィンを始めたんですか?
青山 大学1年生の夏からやから、18の時ですね。それまで小学校から水泳をやっていて、中学、高校、大学と水泳部でした。
浅井 どうやってサーフィンを知ったんですか?
青山 本屋さんで立ち読みですね。当時はまだサーフィンの専門誌はない頃でしたから、オーシャンライフという船の雑誌で、アメリカから来たスポーツとしてサーフィンが話題に取り上げられていたんです。今でもレジェンドとして有名な、テッド阿出川さんや川井幹雄さんも出てました。
浅井 へえー。
青山 もちろんサーフィン自体は高校の頃からテレビで見て知ってたんです。でも、外国でしかやれないものだと思ってたんですよね。何しろ白黒テレビの時代ですから。ビーチボーイズの曲にのせてカリフォルニアの海でロングボードに乗る人たちとか、ハワイアン・アイってドラマでサーフィンのシーンがあったり、当時は映像でしかそれを見てなかった。ところが雑誌で見たら、日本人が千葉とか湘南でやってるって書いてあったんです。それで自分もやってみたいと思って始めました。
浅井 その頃雑誌に出ていた方達は今おいくつくらいなんですか?
青山 僕が今71ですから、彼らは75〜6ですかね。今も現役の方もおられますよ。
浅井 じゃあその方達が日本にサーフィンを広めたんですか?
青山 サーフィンはアメリカの軍人さんが持ってきたのが始まりでそこから広まっていったみたいですね。軍の基地の周辺、横須賀、沖縄、岩国、唐津、の辺りから流行り始めて、一番盛んだったのは湘南、千葉。横須賀基地の軍人さんが湘南でサーフィンをやって、それを見た川井幹雄少年はゴムマットで始めたそうです。
浅井 へぇー、ゴムマットで⁈
青山 テッド阿出川さんもそのくらいの世代で、ダックス高橋さんはウレタンのフォームを削って自分で板を作ってたそうです。
浅井 じゃあ、青山さんが初めてサーフボードを目にしたのはいつ頃なんですか?
青山 高校生かな。水泳部で水着をオーダーしに行った時です。大阪の淀屋橋のミズノにロングボードが飾ってあったのを覚えてます。
浅井 ちなみにミッドレングスとかショートが出てきた時代はもっと後なんですか?
青山 そうですね。僕の始めた時代が丁度、ロングボードからミッドレングスに変わり始めた時代です。マリブかドロップアウトか、当時はメーカーもショップも数件でした。僕の最初の板はマリブの2m10cmくらいのセミロングで、大阪のウイングクラフトで中古で3万円。当時の3万ですからね、高かったですよ。最初は和歌山の磯ノ浦海岸で始めて。それが1970年頃の話です。
浅井 まだ自分は生まれてないですね。青山さんはそこからどうやってサーフィンを覚えたんですか?
青山 もちろん見よう見まね。
浅井 誰かに教わったりとかは?
青山 誰もやってないから、聞く相手がいない。誰かいれば聞いていたかもしれないですけど。
浅井 じゃあ全部自分で、完全に独自のスタイルですか?
青山 そうです。僕もそうだし、さっき名前の出てきた古い人達は皆んな、何もない所から開拓、開発していったっていうことです。波も、天気も、サーフィンするポイントもすべて。とにかく流れどめがない時代に始めてますからね。僕はそれまで水泳をやっていたからパドリングで沖に出ることはできたし、板が流されても泳いで取りに行けた。でも、どの波がいい波なのかなんて分からなかった。
浅井 そうですよね、どうされてたんですか?
青山 波が立つ場所を探して行ってました。低気圧が通った後を狙ったり、一番簡単なのは台風を目指してそこへ行ったりとか。だから批判も受けましたよ。「危ないから上がりなさーい!」って警察官に注意されたことも何回もありました。
浅井 あら…。流されたりはしませんでしたか?
青山 それが不思議と流されたことはないんです。なぜかは分からないけど、経験で波を読んでたのもあるだろうし、基本的に泳げるということ、それから動物的勘みたいなもので無謀なことはあまりしなかったと思います。
安全な場所を選んでやってたのも良かったかもしれませんね。18の頃に四国で波乗りするポイントを探してて生見海岸に辿り着いた。あそこはテトラポットも無くて岩も少ないから安全やし、波も良く立つんです。
浅井 生見海岸は今でこそ毎日のように人が入ってると思いますが当時は?
青山 当時は誰もいません。夏休みも日曜日も。よくガソリンスタンドの人に、「これ何すんの?ヨット?」とかって聞かれました。違いますよ、アメリカから来たスポーツでサーフィンて言うんです。「へー、どこでやんの?」生見海岸でしてます。って説明するくらい知られてませんでした。
浅井 自分もついこの間まで四国にいて、四国の人達はいい意味で人に興味があるなと感じたんですけど、青山さんの周りは当時どうでしたか?
青山 僕は割と地元の人よりか、近場の室戸岬の人とか、牟岐のサーファーと仲良くなりましたね。当時、地方でも少しはブームになりつつありましたから、マリンショップやダイビングショップに板が置かれるようになってきて。それを買った田舎の若者達が僕ら都会の若者と仲良くなって。情報交換したり、家に泊めてもらったり。地元の漁師さんとも友達になって、「今日は鮑獲ってきてあげるわ。その代わり後でサーフィン教えてなー。」とか、そういうほのぼのとした感じやったですね。
浅井 そうやってお互いに発見した事をシェアしたり、一緒に練習したりしてレベルを上げていったんですね。 大阪から四国の海にはどうやって?
青山 僕の家は佃煮の問屋で毎日家業の手伝いをしてたんですけど、春休み夏休み冬休みだけはそれも休ませてもらって、4歳下の弟と二人で旅に出るんです。楽しかったですよー。ワーゲンのバスにサーフボードとプロパンガスを積んでご飯を炊きながら。サーフバムやー言うてサーフィンしながら四国を転々としてました。
浅井 めちゃくちゃいいですね。クライミングもちなみにクライミングバムという言葉がありますね。
青山 そうですか。おんなじですね。僕は高校時代、水泳のインターハイ決勝に出てた選手やったから大学でも1年生から即レギュラーやったんです。でも結局サーフィンの方が面白くなって、家業を継がないかんって父親に言われたということにして、半分嘘をついて水泳部辞めました。
浅井 なるほど。せめぎ合いがあったんですね。
青山 僕は遅咲きながら29歳くらいでJPSAに受かって、国内の大会にも出ました。でも千葉とか湘南の人はみんなうまくて勝てなかった。それから国外に出てハワイの波に挑戦していく中で、自分にはこっちの方が優れているのかもしれないと気付いて、30代後半から40代で大きい波にトライしていくんですね。40代50代はワイメアのビッグウェーブに乗って写真に残そうとずっと努力して、その夢がやっと叶ったんが58の時でした。
浅井 それほどはまったサーフィンの魅力は何だと思いますか?
青山 よく皆んなが言うのは達成感とか満足感とか。コカコーラ飲んで気分がスカっとしたみたいな感じもあるし。
前に僕がサーフィンライフという雑誌に記事を書いていた時、サーフィンの魅力とは?と聞かれても、結局それについて答えられないのがサーフィンの魅力なのでしょう。と表現しました。それくらい言葉にするのは難しい。
浅井 そう思います。
青山 それとね、僕は水泳の後もサーフィンした後も、なんか不思議と体全体が軽くなるんですよ。それも気持ちいいし、もちろん心もわくわくするんです。
浅井 ああ、それはすごくわかります。
青山 「大きい波は怖くないですか?」と聞かれた時には、怖いよりも気持ちいいですよ。それにビッグウェーブには、水泳で日本記録とった時の気持ち良さが毎回あるんです。って答えてました。日本記録なんて皆んななかなか取れない。それが3m4mの波に乗ると毎回感じられる言う事なんです。
浅井 へぇー、面白い。
青山 そんならワイメアはどんなですか?と聞かれてね、そりゃあオリンピックで金メダル取った気分ですよ。って答えました。
浅井 なるほど。
浅井 青山さんは18歳の時と40代50代の時では関わる波も目標も変化していますよね。それはどうしてですか?
青山 僕は、大会に出て頭半くらいの波で短時間のうちに全力を出し切って技を披露する、いわゆるコンペテーターには向いていなかった。それに人と勝った負けたをするのは苦手やった。
その点ビッグウェーブには争いはほとんど無くて、ここまでよく辿り着いたね、と互いを讃えあうような雰囲気がありました。one of themやから、ハワイの人もいればヨーロッパの人もいて、誰もがリスペクトし合って友達みたいになるんです。
浅井 そもそも行ける人が限られている中で、ゲットした人達はかなり多くの事を乗り越えてきた仲間ってことですね。
青山 そうです。特にワイメアはパイプラインとかと違って入りにくいし上がりにくいから、辿り着いた人でさえ、いざこの波に乗るとなった時には相当な勇気、みたいなもんがありますね。
浅井 青山さんは自分に合った波と関わることで目標は自然に見えてきていて、トライを重ねて成果も得て。その経験てきっと人生にも返ってくるものがあったと思うんですけど、波と関わって何を学んだと思いますか?
青山 うーん。とにかく難しいってことですよね。そう簡単にはいかない。波は自然が生み出したものやから。
浅井 確かに。
青山 それに乗るということは、天気を読むこともやし、色んな波を経験せなあかんし、地道なトレーニングがあってこそなんです。それはサーフィンに限ったことじゃない。何にでも通ずる事だと思うんです。簡単じゃないゆうことは、修行のような遠く長い道のりを行くということ。でもそれがあるから花開く時が来るんです。
浅井 難しいですよね。セットもどれが一番ベストなのか分からなくて、二個目に乗ったら結局は一個目の方が良かったみたいなことも良くある。自分じゃなくて波が主体なんだと感じます。
青山 波にも人生がありますからね。似たような波はあっても、全く同じ波は二度とない。ひとつひとつ違うんです。
風が起こした波が終着駅の砂浜でスッと消えて成仏する。その時の手助けをするのが僕らサーファーなんです。
浅井 自分はサーフィンをしていると、ああ自由ってこうゆうことなのかなぁ…とかって分かるような気がするんですけど、青山さんはどうですか?
青山 自由っていうのは束縛がないゆうこと。不自由の逆さまが自由やからね。毎日サーフィンできるなんてそれだけでほんまに自由ですよね。ほとんどの人がそうはできなかったり、仕事しながら社会の束縛を受けながらやっているはずだから。
浅井 どうして青山さんの周りにはいつも自由があるんでしょう。
青山 環境の面で言えば、普通の人は学校卒業したらどっかに就職せなあかんでしょう。僕の場合、弟と二人で家業を継いで、サーフィンやる為にサーフショップも始めて、そのうち家業は全部弟に任せて。その辺りからある程度自由ですよね。
それに心の面でもサーフィンできる自分、そこに持って行く自分も大切やと思う。それが自然と生き方の自由につながっているんじゃないですかね。
浅井 海に行って自由が見えて、自由が見えてくるからまた海に行って…。自由と波が仲良く行き来しているみたいな。
青山 サーフィンを始めて生活が波中心に変わったって言う人は多いですよ。
浅井 分かります。自分も気づくとそっちへ歩いて行ってます。
青山 僕は京都生まれの大阪育ちみたいなもんですけど、サーフィン始めてからはゆくゆく晩年は海の側で暮らしたいとずっと思っていて、今その夢は叶いました。
ハワイの人はビッグウェーブ乗った次の段階はロングボードに乗って、歳がいっても死ぬ間際まで海で遊んでるんです。
僕もこれから体力的な衰えがあるかもしれない。でもたとえ今のようにいかなくなっても、その時はその時でゆるーい波にふわふわーと乗って、最後まで波のそばで生きたいと思う。
浅井 いいですね。自然と対話しながら、自分自身とも対話して生きていく。青山さんは自由という光のある方に向かって生きてる感じがしますね。
浅井 自分はサーフィンを始めて、タイミングをここまで気にするアウトドアスポーツって無いなと思ったんです。どの波に乗ったらいいか分からなくて見極めるのが難しいというか。要はタイミングを見る、いい波が来たら乗れる準備は整えつつその時を待つみたいな。波が主体なんだと気づいたら、考え方としてそれが色んな所に活きてきて、人生が少し楽になったんです。
青山 浅井さんは40歳にして波乗りを覚えて結構衝撃やったんやないですか?
浅井 そうですね。
小さい頃から母は登山、父は釣りが好きで、自然と関わることはその頃からしてきたんですけど、別にクライミングがしたいわけでも登山がしたいわけでもプロになりたいわけでもないってことが段々と分かってきて。
自然の中にいると自分の体が自然に溶け合っていくような感じがして、音叉が振動波を伝えて共鳴するような感覚を感じるんです。クライミングをしている時とか長く山に入っている時にその音叉の感覚に陥ることが何度かあった中で、振動波が合うと、その瞬間、束縛も何もない自由を感じることができる。でもそれを言葉にするのは難しかった。
サーフィンを40で始めた時、サーフィンにも自分の細胞が自然に溶けてく感覚があると分かったんですね。その時に、やっぱり自分がやりたいのはこの共鳴の感覚を感じる事であって、クライミングも登山もその感覚に至る為の手段の一つ。そう考えると全部が繋がってて。
だから今はもうカテゴリーという領域は消えて、自分が何者なのかも分からない。世の中から見ればただ遊んでる人みたいになってるんですけど、でも自分がやりたいのは何か一つの行為じゃなくて感覚を得る事。サーフィンに出会ってそこに気づけたんです。
今回の四国の旅で波流月に滞在していた時は、天気が良かったらクライミング行って、波がいい時はサーフィンやって、それってすごく自然な生き方で、自由を感じました。とても素敵な時間でした。
青山 いい波に乗ると僕もそんな風に波動みたいなものを感じますよ。時も忘れて夢中になって。自然と関わるとか波に乗るとかっていうのは、形の無いスピリチュアルなものなんですよね。
ハワイ語では波に乗ることを「フイヨヘエナル」と言うんです。ヘエは滑る、ナルは波。英語でサーフィンというとスポーツや大会のイメージになるけど、フイヨヘエナルと言うと単なるスポーツではない感じになる。
浅井 確かに。フイヨヘエナルの方が感覚的に近いですね。
青山 だから僕はあえてサーフィンをサーフィンと呼ばずに日本語で「波乗り」って言うようにしてるんです。波には夢がある。僕らが産まれる何億年も前から、きっと地球が誕生した時からずっと波はあったはずやから。だから僕は波乗りって言う方が好きやしその方が面白いと思ってるんです。
浅井 なるほど。青山さんだから持てる感覚ですね。あとやっぱり、自分と自分の体との対話もありますね。
青山 僕が自由に波乗りできてるのは何もサーフィンだけが特別なわけやないと思うんです。山を登るとかにも共通することはあって。
僕は波乗り以外に水泳もやってサップもやって、サーフィンと逆の筋肉や体幹を鍛える。そうやって補ったり治したりしてからまたサーフィンをやる。今僕が71歳にしてある程度波に乗れてる言うことは、自然とそう言う事が分かるようになったからやと思いますよ。
今回のインタビューはここまで。
それではまた次回、お会いしましょう。
お山出版編集部
編集後記
浅井 夜の海に浮かぶ灯台的存在が青山さんにとっての自由で、座標のようなものなんだなー。
編集部 先生の旅って、青山さんみたいな素敵な人に出会う率高くないですか?
浅井 うん。何でだろうね。
編集部 で、明日からまた旅に?
浅井 なんか動いてた方がいいことがあると思わない?
編集部 確かに。先生の旅の収穫はすごい…
浅井 じゃ、行ってきます。
編集部 、、、。
いってらっしゃいませ。良い旅を。
よろしければサポートお願いします。いただいたサポートはクライミングセンター運営費に使わせていただきます。